先月のこと。
水戸に用事があり、午前11時に水戸駅に到着した。
午後から、三菱UFJ銀行水戸支店で用事があり、バスで泉町方面へ。
京成百貨店をぶらぶらした後、大通りを大工町方面に歩いた。
筑波銀行水戸支店の少し先に、「テツ・アートプラザ」という新しい建物がある。
カフェ、ラウンジのある、この建物の隣に、美術館が併設されている。
私は、4月に一度入ったことがあるのだが、約束の時間まで30分以上あるので、館内で過ごすことにした。

広いラウンジのすみに、裸の女性の彫刻が展示されていた。
小森邦夫の「あすなろ」という作品である。
解説を読むと、「本作はこの建物が旧三菱UFJ銀行水戸支店として使われていた時代から店内に設置されていたものをもとに鋳造した作品で~」とあった。
右下に、昔の店内のにぎわう様子が写っており、昭和の風景に懐かしさを覚える。
ちなみに、現在の水戸支店は、大通り向かいの古いビルの中にあり、1階がATMコーナー、3階が窓口のある店舗となっている。
もはや銀行は、立派な建物を必要としなくなったのだ。
私は用事があるので、この後、横断歩道を渡り、支店へと向かった。
それにしても焼けるように熱い、、、
日傘を差さなければ、どうかしてしまう...(;´Д`)ハアハア
銀行で用事を済ませ、私は、また横断歩道を渡り、クヴェレ美術館へ向かった。
美術館のフロントヤードに、謎めいた真っ赤な置き物があり、ひときわ目をひいた。
が、あまりに暑いので、私は、サッサと館内へ逃げ込んだ。
館内に入ると今度は冷房がききすぎていて、私は寒くなってしまった。
少し休んでから見ることにしよう。
私はトイレを済ませた後、椅子に座り、今回の展示案内のチラシを眺めた。
前回4月に来たときは、日本画がメインの展示会だった。
今回は、7月に展示替えをしたばかりであるが、「日本近代洋画とシルクロードの精華」という展示会だった。
①といえば、フランスで活躍した藤田嗣治だが、③のような不遇な洋画家もたくさんいた。
彼らは海外の文献を見て、研究をして、自身の洋画スタイルを確立したという。
茨城県水戸市出身の著名な洋画家の中村彜(なかむらつね)は③である。
昔は1ヶ月以上かけて船旅をする必要があり、公衆衛生も悪かった。
彼は病弱で海外に行けなかったという。
そんな中村彜の「ダリヤ」という作品が85年ぶりに公開されたとある。
「中村彝 (なかむらつね・1887-1924年)
茨城県生まれ。1904年名古屋陸軍地方幼年学校卒業。翌年千葉県で療養し水彩画開始。1907年太平洋画会研究所入所。1909年第3回文展入選、褒状。1911年新宿中村屋裏へ移る。1914年伊豆大島に滞在。1915年ルノワールの作品を実見し感銘を受ける。1916年下落合にアトリエ新築。1920年≪エロシェンコ氏の像》(重文)制作。1923年関東大震災被災。以後宗教的画題を描く。37歳で死去。」(クヴェレ美術館解説より)
そういえば、数年前、目白台の中村彜アトリエ記念館を訪れたことがある。
私は、そのときのことを思い出した。
以下、2020/11/03「目白アトリエ散歩」より。
目白駅の改札を出て右へ行くと目白台、左へ行くと目白、下落合である。
目白台の方には、講談社の創業家野間家の日本画の美術館(野間記念館)、細川家の永青文庫があり、主に和物の美術館である。
これに対して、目白、下落合の方には、中村彜アトリエ記念館(なかむらつねと読む)、佐伯祐三アトリエ記念館があり、こちらは洋画の美術館であるが非常に小さい。
住宅地の中に小さなアトリエの建築物があり、保存目的で無料公開されているのである。
空き家にしてしまうと不動産はすぐ傷むので、職員が常駐したり、来館者が出入りしたりする方が保存には良いのだろう。
中村彜、佐伯祐三はともに明治大正期の洋画家である。
中村も佐伯も病気がちで早死した。
なので、それほど目立たない洋画家ではある。
しかし、国立近代美術館の常設展に何点か代表作が展示されており、それが非常に印象的な絵なので、知る人も多いかもしれない。
こないだ、私は都内で用事を済ませた帰りに目白に行った。
駅をおりると3時近くで、駅から近い方の中村彜アトリエ記念館から先に見たのだが、後から行った佐伯祐三アトリエ記念館は残念ながら閉館時間を過ぎていた。
目白駅の改札を出て左へ歩く。
目白通りの商店街を通り、目白病院の少し手前で左折する。
路地を歩いて5分ほどで、住宅地の中に中村彜アトリエ記念館の正門が見える。
なので、それほど目立たない洋画家ではある。
しかし、国立近代美術館の常設展に何点か代表作が展示されており、それが非常に印象的な絵なので、知る人も多いかもしれない。
こないだ、私は都内で用事を済ませた帰りに目白に行った。
駅をおりると3時近くで、駅から近い方の中村彜アトリエ記念館から先に見たのだが、後から行った佐伯祐三アトリエ記念館は残念ながら閉館時間を過ぎていた。


まだ時間があるので、もう少し、クヴェレ美術館の展示作品を見ていよう。
私は、いま歩いてきた展示スペースを戻り、気に入った作品を眺めた。
見上げると、大きな垂れ幕に、このような言葉が書かれている。
「たびたび展覧会をしても、それ自体は満足のいく収入にはならなかった。生活していくために、より実のある何かを始めなければならなかった」(「東洋から西洋へ」兵庫県立美術館2025年より)
なるほど、、、(*'ω'*)ウ~ム
なるほど、、、(*'ω'*)ウ~ム
画家は、効率の悪い手仕事である。
売れないものは在庫となる。
相当高い値段でないと、「満足のいく収入」にならないだろう。
私は立ち止まり、考え込んだ。
より実のある何か、、、それは彼女にとって何だ?(*'ω'*)
続いて、もう少し歩くと、別の画家の言葉として、「画家は信念と自由が大事」というのが書いてあった。
確かにそうだが、信念と自由では生活ができないから、より実のある何かを始めなければならないのでは?
さらにもう少し歩くと、佐伯祐三の作品があり、私は立ち止まった。
私は「目白台アトリエ散歩」の記事で書いたように、佐伯祐三記念館に行きそびれたのだが、今回もうっかり見逃すところだった。

佐伯の絵は、見るからに病んでおり、陰鬱なオーラが漂ってくるものだった。
タイトルは「壁」、油彩画の作品だ。
佐伯は、大正13年、フランスに渡ったが、ヴラマンクから酷評されてしまう。
この作品は、酷評の直後に描かれたものだという。
そういわれると、確かに、恨めしいかんじがする。
続いて解説文には、「正面に据えた古びた建物の壁が強い存在感を放ち、壁面に控えめに刻まれた引っ掻き傷には、後年の看板やポスターの文字表現への萌芽がうかがえる。やがてポスターは、佐伯の激しく複雑な自己の内面を映し出す重要なモチーフとなっていった」とある。
壁に、恨みを込めて何かを描く・・・私は、このようなテイストの壁画作品を、以前どこかで見た記憶がある。
「佐伯祐三(さえきゆうぞう・1898-1928年)
大阪府生まれ。1917年川端画学校洋画部で藤島武二に学ぶ。1918年東京美術学校西洋画科予備科入学,在学中池田米子と結婚。1923年同校西洋画科卒業。1924年渡仏し、里見勝蔵とヴラマンク訪問。酷評を受ける。1925年サロン・ドートンヌ初入選。1926年帰国、一九三年協会結成。二科展に滞欧作出品、二科賞受賞。1927年再渡仏、サロン・ドートンヌ入選。パリ郊外の精神病院で30歳で死去」(クヴェレ美術館解説より)
こういう死に方は、画家には、よくある話である。
美術館やギャラリーを回っていて、昔の画家のプロフィールを見ると、正直、画家というのは、健全に見えても実は精神を病んでいたりして、ロクな死に方をしないものだと、つくづく思う。
その理由は、やはり、「たびたび展覧会をしても、それ自体は満足のいく収入にはならなかった」からだろう。
また、「生活していくために、より実のある何かを始めなければならなかった」が、画家自身には、たいていの場合、その手段がないからだと思う。
もっとも、美人女性画家の場合は、意外と逃げ道があるように思えるのだが。
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