2020/11/28

アングラ劇団員人違い事件

以前、演劇の専門家で日本芸術文化振興会のPD(プログラムディレクター)のN先生から、演劇の歴史を非常に分かりやすく教えてもらったことがある。
その時、アングラ劇団の話が出たので、私はRさんのことを思い出したのだが、アングラ劇団って、そういうことなのか!!と私は思った。

Rさんは、これまで何度かブログに登場したことのある岩下志麻似の劇団員の女性である。
彼女とは数年前紹介で知り合い、それ以来の友達だが、劇団員といっても「劇団四季」ではなく、都内のアングラ劇団の劇団員である。
公演前になると、彼女は割り当てられた前売券を売りさばかなくてはならず、ある時、私にも声がかかり、前売券を購入して都内の小劇場まで見に行った。




1度目の公演は、都内の住宅街にある地下劇場で開催された。
アングラ劇団は、このような場所で公演をするのだが、まるで反社会活動のようでもある。
ただ、内容はそう過激なものではなく、新撰組の時代劇で、今流行りの普通のものだった。
数ヶ月後、また公演があり、チケットを買って見に行った。
そうしたらまた都内の雑居ビルの地下の小劇場であった。
ただこの時の公演は、戦争がテーマの真面目な作品で、どうも彼女の演技も堅苦しくて、らしくなかった。

さて、公演前の彼女は、稽古とバイトで多忙である。
が、公演が終われば稽古がなくなり、バイトがなければひまである。
その時、何度か遊んだことがあるのだが、ただ、一緒に遊ぶことになったきっかけが、何ともマヌケな話なのであった。
彼女は最初の時代劇の公演では準主役を演じていた。
舞台の役者たちを見ながら、私はどの娘がRさんなのかよく分かっているつもりだった。
白いワンピース(?)のような服の娘がRさんだ、と思ってずっと見ていた。
舞台終了後、出入口の通路に出演者たちが一列に並び、帰りの観客を出迎えていた。
私は真っすぐその女性に向かっていき、「Rさん、素晴らしい演技でした~」と話しかけ、握手を交わし、急いでいたのですぐ立ち去った。
が、実はそれはRさんではなく、別の役者だったのだ。
離れたところから私とその女性のやりとりを見ていたRさんは、カチンと来たらしい。
翌朝、彼女から、あれは私じゃないんですけど~というお叱りの連絡があり、私は何度も謝罪をし、今度ご飯をおごりますから~ということで決着した。


銀座三越ラデュレ


銀座三越ラデュレ


東京ミッドタウン


東京ミッドタウン


東京ミッドタウン


まあ、時代劇なので、よく分からなかったのである。
女性陣はみな厚化粧をし、髪型も変え、仰々しく仮装している。
舞台だからテレビのように顔のアップを見れるわけでもない。
なので、私が人違いをするのも十分な理由があったのだが、ずいぶん失礼で、まぬけな話であった。

その後、Rさんは劇団に見切りをつけた。
都内の飲食店に就職したのだが、さすがに、アングラ劇団員を何年もやってはいられないということだろう。
また、彼女は大変に料理上手で、稽古後に男性の劇団員たちのための食事を作るのが大変だ、とぼやいていた。
だから彼女には適職と思ったが、ほどなく新型コロナウィルスが蔓延し、都内のその店も感染対策に追われたり、休業に追い込まれたりと厳しい経営状況となった。
最初のうちは近況を話したりしていたが、これだけ自粛が長引くと、お互い立ち入った話もしなくなった。
店は何とか営業しているようなので、機会があれば年末にでも、応援のため彼女の店をのぞいてみようと思うのだが、どうなんだろう。
ここまで大変な思いをして劇団員を長く続けたRさんだが、、、結局は数年後、劇団員として見事復帰を果たすような気がするのだが??


2020/11/26

絶好のカレー日和

今は新型コロナウィルスの流行のため中止のはずだが、汐留パナソニックビルのインテリア展示場の一角では、パナソニックが料理教室を定期開催している。
この料理教室は、パナソニックがIH調理機器を世に広めるための広報活動でもあるため、参加費無料なのだが、ABCクッキングのような本格的なものではなく、40分程度の簡単な座学である。
生徒は椅子に座り、レシピを見ながら先生の料理の手順を見る。
その後、出来上がった料理が各人に配られ、食べたら解散となるので、まあ、料理教室というよりレシピ付きの試食会であるが、かなりの人気があった。
そうそう、新型コロナウィルスの流行で廃業を考えている飲食店は、この際、オリジナルレシピ付きの試食会(ただし試食はテイクアウトを推奨)でもやってみてはどうだろう。


汐留パナソニック料理教室のカレー


話を戻そう。
私は以前、ここでめちゃくちゃおいしいチキンカレーを食べたことがあるのだ。
最近、家でカレーを作ろうと思い、この時のレシピを探したが見つからなかった。
当時の手帳のメモには、インドネシアカレーと書いてあった。
へえ、インドカレーではなくインドネシアカレーとはね。

まあ、このように私はごくたまに、外でおいしいカレーと巡り合うことがある。
ただ、私は外でカレーをほとんど食べない。
その理由はいろいろあるが、ラーメンほど食欲をそそらない、スパイスの匂いが付着する、はねると服にウン〇色が付いてしまう、といったことがある。
もっとも、洋食屋でメニューを眺め、ふとカレーを注文することもある(順に、アラスカ、銀座みかわや、資生堂パーラー)。


「アラスカ」のカレーライス


「アラスカ」のカレーライス


銀座みかわやのカレーライス


銀座みかわやのカレーライス


資生堂パーラーのカレーライス


資生堂パーラーのカレーライス


特に、用事を済ませて、空腹になり、1人で食事をする場合は絶好のカレー日和である。
考えてみると、イタリアンレストランにもフレンチレストランにもカレーはないが、洋食屋にはどういうわけか、カレーがある。
洋食屋とはむろん、西洋料理店のことだが、本格カレーの店はインド人が店主だったりするから、きっとカレーは西洋料理ではないと思うのだよね。
細かいことは、まあ、いいか。
カレーは売れるからメニューに入れた、ということなのかしら。

これに対して、これから約束がある場合、それほど空腹ではない場合、複数で食事をする場合、カレーは不向きだと思う。
以前、おいしいラーメン、まずいラーメンという記事でも書いたが、外食は、食後の胃袋や体調がどうなるかが非常に重要である。
この点、ラーメンとカレーは日本の国民的人気メニューであるが、私にとっては2大ハイリスクメニューである。
なぜなら、食後にのどが渇く、腹にたまる、食べすぎると調子が悪くなるからである。
用事があり外出している場合は食べにくい。

以上、カレーの話をだらだらとしてしまったが、最後に、ABCクッキングで作った絶品のカツカレーを載せておこう。






2020/11/20

地域おこし協力隊の青年

牛久駅前ロータリーの稀勢の里の手のひらの記念碑


こないだ書いたように、9月に近所の牛久シャトーを初めて見に行ったが、日本遺産なのにずいぶんさびれているところだなあ、と思った。
牛久シャトーから駅前まで歩くと、再開発ですっかり駅前がきれいになっており、稀勢の里の手形の記念碑などもあるのだが、公共事業の立派な残骸はたくさんあるということなのだ。
しかし、肝心のその周囲のビルは空き物件が目立ち、冬の寒い風が冷たく感じられるのだった。

そういえば2月東京で、地方創生のイベントがあったんだった。
私はそこで地域おこし協力隊の隊員の青年と話したことを思い出した。
イベントでプレゼンテーションをした人たちのなかに、Sさんという桐生市の地域おこし協力隊の隊員をしている青年がいた。




桐生市といえば去年の一泊した観光地だ。
わたらせ渓谷鉄道の冬のイルミネーションも見たのだが、途中に温泉施設付きの珍しい駅があり、そこで温泉に入り、イルミネーションを見たり、くつろいだりしたのを思い出した。
わたらせ渓谷鉄道は、桐生市周辺から、田中正造で知られる足尾銅山の方へ走る山岳鉄道である。
とにかく、夜は正真正銘の真っ暗で、何にもないところを走っていた。




「Sさん、地域おこし協力隊って何です??」
「移住して町おこしを手伝うと、毎月少しだけ行政からお金がもらえるんです。」
「なるほど、プチ公務員みたいなもん?? 桐生市にひとり住まいですか。」
「はい。」
「桐生市なら去年旅行に行きました。名物のひもかわが、おいしかったなあ。」
「あれはおいしいですよね。」
「わたらせ渓谷鉄道で、温泉がくっついている駅まで行きましたよ。ええと、どこだっけ。」
「水沼駅です。私はその近くに住んでます。」
「あそこは何にもなくて、のどかで良いところですよね。」
「ですね~、本当に何にもない。」




ふる川のひもかわ


ふる川のひもかわ


Sさんは都内で仕事をしていたが、退職後、桐生市に移り住んだ。
市役所から毎月定額をもらい、町おこしを手伝いながら自分のやりたいこともやれる。
最近空き家を買い、リノベーションをして民泊の施設を開こうとしている。
ただ、業者に頼む資金はないので、自力のリノベーションである。

私たち参加者は、おもしろいアイディアを提案するため、プレゼンした人を囲んで意見を言い合うのだが、Sさんの順番になった。
他の参加者たちが手探りで質問を投げかけていくなかで、私はうっかり、Sさんに根本的な疑問を投げかけてしまった。
隣の女性から集客方法を問われたSさんだったが、集客方法はまだ考えていないということだった。
私はじれったくなり、集客方法をよく考えないと、きれいなホテルではないし、観光地でもないのだからお客さんが来ないのでは、と思わず言ってしまった。
たぶん他の参加者たちも同じ思いでSさんの話を黙って聞いていた。
実は、このディスカッションは、否定的なことを言わない約束で成り立っていたのだ。

しかしその後は、私が否定的なことを言ったためか、堰を切ったように他の参加者たちもSさんに次々と厳しい質問を投げかけた。
頼りないSさんに対する愛のムチのようでもある。
Sさんはたどたどしく、同じような話を繰り返した。
時間が来て私たちは次の場所へ移動した。
私は、Sさんに申し訳ないことをしたなと思ったが、他方で、この地域おこし協力隊は私にはあまり好感が持てない制度になった。

地域おこし協力隊のもらえるお金は、過疎と高齢化に悩む地方の町が若者に支払う移住のインセンティヴである。
若者から老人にお金が流れるばかりの日本社会で、老人から若者にお金が流れる仕組みを狭い場所で作っている。
だが、老人の町で暮らす独身の若者のインセンティヴとは何だろう。
老人たちが生きているうちは、介護の仕事くらいしかなさそうだし、早晩老人たちがいなくなることは確実なのだから、その後、彼の周りに何が残るのかが重要な問題だ。
いや、そこを考えるのが地域おこしなのです、と言われてしまいそうだが。
彼のもとにはリノベーションした民泊施設が残るのだろうが、彼の周りには何もない、というようなことにならないだろうか。

2020/11/03

目白アトリエ散歩

目白駅の改札を出て右へ行くと目白台、左へ行くと目白、下落合である。
目白台の方には、講談社の創業家野間家の日本画の美術館(野間記念館)、細川家の永青文庫があり、主に和物の美術館である。
これに対して、目白、下落合の方には、中村彜アトリエ記念館(なかむらつねと読む)、佐伯祐三アトリエ記念館があり、こちらは洋画の美術館であるが非常に小さい。
住宅地の中に小さなアトリエの建築物があり、保存目的で無料公開されているのである。
空き家にしてしまうと不動産はすぐ傷むので、職員が常駐したり、来館者が出入りしたりする方が保存には良いのだろう。

中村彜、佐伯祐三はともに明治大正期の洋画家である。
中村も佐伯も病気がちで早死した。
なので、それほど目立たない洋画家ではある。
しかし、国立近代美術館の常設展に何点か代表作が展示されており、それが非常に印象的な絵なので、知る人も多いかもしれない。
こないだ、私は都内で用事を済ませた帰りに目白に行った。
駅をおりると3時近くで、駅から近い方の中村彜アトリエ記念館から先に見たのだが、後から行った佐伯祐三アトリエ記念館は残念ながら閉館時間を過ぎていた。

目白駅の改札を出て左へ歩く。
目白通りの商店街を通り、目白病院の少し手前で左折する。
路地を歩いて5分ほどで、住宅地の中に中村彜アトリエ記念館の正門が見える。


中村彜アトリエ記念館


中村彜アトリエ記念館の庭


おしゃれな洋館と芝生の庭。
私は早速、庭から洋館のテラスに上がり、窓越しにアトリエをのぞいた。
小ぎれいで、木造校舎の美術室のようなアトリエには、どこかの美術館で見たことのある肖像画が飾られていたが、私は作品名を思い出せなかった。
受付を済ませ、入口の方から靴を脱ぎ、洋館に上がった。


中村彜アトリエ記念館の「盲目のエロシェンコ」


中村彜アトリエ記念館の「エロシェンコ氏の像」


先ほど気になった肖像画は「エロシェンコ氏の像」であった。
オリジナルを国立近代美術館で見たことがある。
しかし、もう1枚、似たようなエロシェンコの肖像画があった。
こちらは中村彜の作品ではなく、鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」という作品だった。
だが、そもそも盲目のエロシェンコさんとはどこの誰なのだろうか。


中村彜アトリエ記念館の「目白の冬」


中村彜アトリエ記念館の「カルピスの包み紙のある静物」


中村彜アトリエ記念館のアトリエ


ほかにも、「自画像」「目白の冬」「カルピスの包み紙のある静物」といった中村の代表作の複製画が展示されていた。
ただ、どの絵からも何となく陰鬱なオーラが漂ってくるのだった。
病気がちで早死した中村のオーラだろう。
いや、これって複製画なんだよな。
複製画に陰鬱なオーラが込められているとは、すごい画家だね。
キャプションを読むと、虚弱体質を改めるため、当時の中村はカルピスを愛飲していたという。
とすると、当時、カルピスは今で言う青汁のような健康食品として売られていたのかな。
さらに解説を読むと、当時は甘いものがほとんどなかったので、カルピスは貴重な栄養食とみなされていたようだ。

その後、アトリエを見終えた私は奥の廊下の方へ行った。
廊下の途中、牢獄のような畳の小部屋があった。
女中の部屋である。
その目と鼻の先に玄関があり、引き戸があった。
なるほど、そうか、私が入ってきたアトリエの入口は実は勝手口なのだ。
こちらが正面玄関なのだ。
しかし、正面玄関は出入り禁止になっている。
当時は、この部屋に女中が常駐し、来客の選別をしていたという。
訪問者がウィルスなどを持ち込み、病弱の中村に感染させないようにするためである。
そのおかげもあってか、中村は病弱のわりに長生きをした。
といっても、37才までであるが。

さて、アトリエを出る時、机にアンケート用紙が置いてあった。
このアンケートに答えると、帰りに受付の男性職員から記念のバッジをもらえるのだ。
無料で入れて記念品までもらえるとは、どうして経営が成り立つのか不思議ではあるが、まあ、このアトリエは良かったのでまた来たいと思った。
次は、もう少し早めに来て、佐伯祐三アトリエ記念館にも行ってみたい。

2020/11/01

吉原遊郭街跡散歩

先月のことだが、吉原の見学ツアーに参加した。
夜の風俗体験ツアーではなく、戦前の遊郭街の史跡を歩く昼間の観光ツアーである。
現在の吉原は下町浅草の隠れた観光スポットである。
女性客や外国人観光客も多く、街中にはいまだ風俗店(ソープランド)があるものの、どこにでもある下町の風景の中にさみしく溶け込んでおり、商店、飲食店、スーパー、コンビニ、戸建住宅、分譲マンション、アパートなどが建ち並んでいる。
吉原の中心を通る仲之町通りは付近の小学校の通学路であり、幼い子供たちが登下校する。
もはや風俗はデリバリーヘルスが主流のため、風俗街としての吉原は滅びかけのようにも見える。
ただ、この日は平日の昼間なのでそう見えるのかもしれなかった。

私が吉原の見学ツアーに参加したいきさつを話そう。
吉原(千束)のすぐそばの竜泉地区に、樋口一葉記念館がある。
五千円札の樋口一葉は短命だったが、この辺に住んでいた(歩道沿いに樋口一葉の住居跡の石碑がある)。
一時は小間物屋を営んだが、商売人ではないので失敗した。
吉原の話は一葉の代表作「たけくらべ」にも出てくる。
当時はまだ遊郭が栄えており、一葉記念館にその頃の吉原の地図と、簡単な歴史の案内が展示されている。
私はそれを見た後、実際に吉原の遊郭街跡を歩いてみたくなった。
インターネットで調べたら見学ツアーの案内があり、参加したのである。


土手通りのあしたのジョーの記念像


集合場所は土手通りの見返り柳、ここは落語に出てくる有名な場所である。
主人公が遊女に未練して振り返るのだが、さぞかし立派な柳かと思うと、そもそもどこにあるかが分からない。
あしたのジョーの記念像の少し先だというが、Googleマップの矢印が吉原大門の交差点のガソリンスタンドを指した。
確かにガソリンスタンド前の街路樹は柳のようにも見えるのだが、街路樹の横に見返り柳と書かれた小さな記念碑を見つけた。
なあんだ、ただの記念碑じゃないか。


吉原大門交差点


見返り柳


ここでガイドの男性(付近の書店主)と、若い女性2人組と合流し、自己紹介をしたりして、吉原大門方面へ歩いた。
ガソリンスタンド、喫茶店、交番、分譲マンション、そして吉原大門。
落語に出てくる吉原大門も、今となっては道路の左右の汚らしい2本の木柱だけ、その先に続く商店街の入口の目印にもならない。
なあんだ、今は木柱だけなのか。


吉原大門


そこから住宅街の路地へと入った。
段差があり、吉原の土手の跡だというが、住宅街をぐるっと歩き、大通りの交差点のタバコ屋の前に戻った。
ガイドの男性が、ショーウィンドウを見てくださいと言うので、私たちはガラスを覗き込んだ。


おいらんの高下駄


日差しが反射して見にくかったが、大きな漆黒の高下駄が飾られていた。
吉原の遊女たちは人目を引くため、このような高下駄をはいてカランコロンと外を練り歩いたというのだが、まあ、和製のハイヒールのようなものかしら。
私たちはタバコ屋の引き戸を開けて中に入り、退屈そうなおばあちゃんと少しだけ話をした。
タバコ屋におばあちゃんなんて、何とも懐かしい光景である。


吉原神社


その後、近くの吉原神社でお参りをし、記念写真を撮ったりもした。
若い女性2人組はお賽銭を入れていたが、私は小銭の持ち合わせがなく賽銭箱に何も入れなかった。
少し休んで、そこから少し歩くと台東病院がある。
この病院はかつて吉原病院という性病治療の専門病院だった。
もともと日本社会は人身売買と売春に関して寛容だったが、江戸時代から江戸っ子には性病(梅毒)が蔓延しており、それはかねがね深刻な社会問題ではあった。
が、だからといって江戸幕府が人身売買と売春をきちんと取り締まったわけではなかった。
明治維新後は徴兵制となった。
男子は国家のため戦地で戦うから性病は根絶せねばならない。
明治政府は性病根絶を国策として掲げ、吉原の一角に性病専門の公立病院ができた。
ただ、明治大正時代も公娼制度は存続していたから、多くの一般人や有名人が、梅毒を患ってそれを隠しながら生活していたのはよく知られていることだ。
戦後、米軍の占領下となり、公娼制度は廃止となった。
その後は生活が豊かになり、避妊グッズの普及もあり、性病(梅毒)は激減した。


観音像




マンションみたいな外観の台東病院を眺めていてもしょうがないので、向かいの公園を横切り、横断歩道を渡り、吉原弁財天本宮の敷地内に入った。
高所に観音像が立っている。
1923年の関東大震災で死んだ遊女たちの慰霊のために作られたものだ。
無縁仏が並んでいる(こういうところを「投げ込み寺」という)。
墓碑銘が刻まれている場合、それは売れっ子の遊女の墓だ。
ガイドの男性によると、墓を見れば遊女のランクが分かるという。
遊女のほとんどは借金のかたに売られてきたのであり、故郷も墓もない。
死んだ遊女を手厚く葬ったのは、ほかならぬ雇い主の経営者たちであった。
ガイドの男性は、それを吉原の経営者の美談として紹介し、経営者と遊女が良い関係であったと推察した。

しかし、その解説は何だか違うような気がした。
一義的には、遊郭の経営者には死んだ遊女の埋葬義務があるはずで、死体遺棄の罪を免れるために、当時の吉原の慣習にのっとり、埋葬義務を履行したということなのだと思う。
それに、経営者が死んだ遊女をきちんと埋葬しないようでは、ほかの遊女たちが恐れて逃げ出したりしかねない。
手厚い埋葬は遊郭の秩序維持のためでもあったと思う。
金にまみれた性風俗の世界に美談などあるわけがない。
ヤクザの世界に義理人情はなく、ただ損得のみがある。
とはいえ、赤線廃止後の吉原は衰退の一途で、ここまでひどくさびれてしまうと、美談のひとつやふたつ吉原にもあったことにして、昔を懐かしんだりするのも許されるのかもしれない。
神社の石壁に、吉原を代表する遊郭の屋号がいくつか刻まれている。
ガイドの男性が教えてくれないと見つからないようなところだが、聞いたことのある角海老という屋号があった。

「吉原で有名な遊郭といえば、角海老さんです。」
「あたし、その名前、聞いたことあるわ。」
「そうでしょう。」
「角海老の看板なら、あちこちの歓楽街で見かけます。風俗の帝王かなんかですか。」(と私)
「その角海老さんは違います。吉原の角海老さんが落ちぶれて、看板を買った人がやってる店なんじゃないかな。」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、吉原の角海老さんはどうなっちゃったんですか。」
「はっきりしたことは分かりません。でも一説によると、廃業後はやきそばの店を始めたらしいです。」
「は? なにそれ。テキヤかな??」
「どうなんでしょうね~。」
「それでやきそばの店はどうなったんです?」
「やきそばの商売は大失敗したそうです。」