2020/08/24

アートは街おこしにならない?

取手市の駅ビル「アトレ取手」の4階に、去年末、「たいけん美じゅつ場VIVA」というアートスペースがオープンした。
JR東日本(アトレ)、取手市役所、東京芸大がコラボして作られたものだ。
市民向けのギャラリースペース、芸大生の卒業作品の入っているオープンアーカイヴ、市民の憩いの場としてのフリースペース、その他にも工作室、大人の休日倶楽部などがあり、何億もの改装費をかけただけあって設備は充実している。
ただ、多くの利用者がアートスペースだとは意識しておらず、フリースペースが学生たちの自習室と化しているのが実情のようである。


アトレ取手ギャラリーたいけんびじゅつばVIVA


たいけんびじゅつ場VIVAアトリエスペース


かなりの金額で改装したから予算がすっからかんで、タダ働きの人員が必要、そこで上野の東京都美術館のアートコミュニケーターの制度をまねて、年明けから無償のアート活動家を募集し始めた、、、ということでもないと思うのだが、初めての試みなので、私を含め多くの市民が物珍しさでアートコミュニケーターに応募したようだ。
しかし、こないだのガイダンスは正直、ありきたりの内容だった。
数年たったら応募者が数人になってもおかしくない。
なお、アートコミュニケーター第1期生の話は、以前の記事に書いたのでそちらを読んでほしい。

そういうわけで、私はアートコミュニケーターに応募し、書類選考、面接に通り、ガイダンスを受け、現在はここで「基礎講座」なるものを受けている。
以前の記事も読んでもらえれば、この話はようするに、最近よくある「アートで街おこし」を狙っているのだと分かるだろう。
しかし、そもそも「アートで街おこし」なんてできるのだろうか??


スターバックスアトレ取手店


それはさておき、アートコミュニケーターの「基礎講座」の話。
カルチャーセンターのような軽いノリの講座ではなく、毎回3時間にも及ぶ、くそまじめな講座で驚いたが、これがなかなかいい勉強になった。
前回は社会活動家のアサダワタル氏の講演で、アサダさんは都内の福祉施設でアートディレクターをしており、アートと福祉の問題について話した。
そして今回の基礎講座は伊藤先生が講師で、対話型鑑賞についてである。
実は、私は対話型鑑賞のファシリテーターをしてみたいと思い、アートコミュニケーターに応募したいきさつがある。
そのため、今回は2階のキャンドゥでA4のノートを買い、真ん中より少し前の席に座ってくそまじめに聴講した。

でも、そもそも対話型鑑賞とは何なのかしら??

対話型鑑賞とは、欧米ではVTS(Virtual Thinking Strategy)と言われるものである。
伊藤先生の話を聞くと、私の対話型鑑賞に対する理解は少しずれていた。
私なりに要約すると、対話型鑑賞の本質は対話(会話)そのものにあるのではない。
作品を鑑賞し、実質的解釈を試みることにあるのだ。
やはり欧米人は日本人とは違って、論理的であろうとしてて、いたってマジメ(!)にアート鑑賞に取り組む人種なのである。
私はむしろ気軽な対話(会話)がメインだと思っていたがそうではなく、対話は目的ではなく、手段の位置付けということだ。


アトレ取手ギャラリーたいけんびじゅつばVIVAアートコミュニケーター基礎講座


また、伊藤先生は講座の最後に教育の話にも言及した。
VTSは子供の教育プログラムとしても秀逸である。
人前で話す練習にもなる、アウトプットの練習にもなる、正解のないことを考える訓練にもなる、それは現在の学校教育に欠けていることを補うもので、画期的なのである。
従来型の古い教育を、伊藤先生は面白いたとえで表現した。

先生の知を生徒に一方的に伝えるのが学校の授業です。
その時、教室にいる40人の生徒は単なるノートの印刷機です。
印刷の精度で生徒の成績が決まるのですから、まったくばかげています。

確かに伊藤先生の言う通り、、21世紀の教育は、双方向と生徒どうしの知の共有が必要不可欠である。
では、最後に私も伊藤先生のように挑発的なことを言ってみようかな。
私たちのやろうとしている(公共事業、福祉事業としての)アートは街おこしにはなりませんよ!!ということを。

私たちのやろうとしている(公共事業、福祉事業としての)アートは街おこしにはなりません。
なぜなら、地元にお金がほとんど落ちないから。
しかし他方で、美術館の建設コスト、のみならず、ランニングコストがばかにならない。
賃料、維持管理費、人件費等、市民の税負担で永続的に発生する。
よって、今はよくても将来頭痛のタネになると思われるのである。
なお、そういうことも踏まえてPFIというビジネスモデルが用意されていたりもするが、PFI事業というのも一般論としてはなかなかクセモノで何とも評価が難しい。

実は、これは福祉国家の抱える構造的な問題なのである。
田中角栄等に代表される古い自民党の金権政治の時代とは違い、今は社会的弱者のための福祉事業、文化事業が「公共事業のトレンド」である。
社会的弱者のために必要だと主張すれば、目立った反対もないので、道路や橋を作るよりも話が簡単である。
確かに20世紀の高度成長国家の日本には道路や橋が必要だったが、21世紀の成熟衰退国家の日本には、社会的弱者のための福祉事業、文化事業が必要である。
しかしながら、公共事業としての効果が小さいし、長期的な負債となって経済を停滞させる恐れがあり、この負担分は、あとで増税という形で国民に請求書が来ることになる。
そのため、福祉国家とは増税国家のことで、福祉を続けるなら増税の時代がずっと続くことになるのである。
欧米ではよく、「フリーランチはない」などと言うのだ。
むろん、増税はますます経済を停滞させる。
経済が停滞すれば社会的弱者が再生産される。
なので、福祉事業は国家が財政破綻するまで需要(社会的弱者がそれにあたる)には事欠かず、福祉制度も存続することになる。
その意味で、(公共事業、福祉事業としての)アートは街おこしになるようでならない、ということなのである。
まあ、少なくとも街おこしの決め手とはならないのであるから、あちこちで流行っているからといって、うちの自治体もまねしてみようなどと追随するのはやめた方がいいだろう。

2020/08/07

ホスピタルアートとパブリックフォーラム

きのうは、名古屋市立大学のヘルスケアアートマネジメント講座のことを書いたが、今日もホスピタルアートのことを書こうと思う。
私はまだ受講生の立場だが、ホスピタルアートは市民社会における人権活動のひとつとして位置付けることが可能だと思う。
アーティストの立場からすると、完成したアートを世に出すことをもって創作活動を成し遂げたと言える(例えば、自分のアトリエで自分で眺めても無意味ということ)。
文化芸術活動では、アーティストがアートを表現する「場所」は不可欠の要素であり、場所の保障は芸術活動の自由の保障と不可分である。

表現活動は憲法21条1項で保障される権利であるが、場所の保障に関して、パブリックフォーラムの理論というアメリカの判例法理を紹介しよう(詳細は小林節「憲法」。憲法の基本書に載っていないことが多く、日本ではマイナーな理論である)。
これは集会の自由(例えばビラ配りなど)の保障の議論のひとつで、例をあげると、公道、公園、公共施設などの公権力所有の公共的な場所の使用を市民の表現活動のために認める、というものである。
JRや私鉄などの駅構内で、堂々とビラ配りができる話ではないのだが、少なくとも市営地下鉄の駅くらいならビラ配りに使用できてもよいだろう、ということ。
したがって、民間の病院でアートの活動は無理だとしても、国公立の病院で展示会程度はできてもよいだろう。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


なごやヘルスケアアートマネジメント推進プロジェクト


さて、アーティストの作品はもちろん、その作品を必要とする人のもとへ届けた方が良いにきまっているが、病院にはアートとマッチングする人たちが多いと考えられる。
時間を持て余している外来患者さん、精神的に落ち込んでいる入院患者さん、リハビリがうまくいかずにイライラしている車いすの患者さん、マイホームとは違うので不安になっている小さな子供などがそうである。
確かに、病院は本来的に患者の病気を治療するための機能的場所であり、そこへアートが持ち込まれるのは違和感や実際上の問題もあるとは思うが、そこは柔軟に考えて具体的課題をひとつひとつ解決していくのだ。

「アートとか、患者の居心地のよさとか、そういうのは病院設計では些末なことです」
「病院設計は、もっとダイナミックなレベルで決められることなのです」
「心の休まるカーテンの色? そんなものどうでもいいのです。それよりも、この最新の医療機器を導入するかどうかが重要な問題です」

まあ、正論だが、ここで私は被災地の仮設住宅の話を思い出した。
仮設住宅の軒先に植木鉢があり、季節の花が咲いている。
病院アートはこういうことだと思うのだ。
この花は被災者にはいやしの花だ。
しかし、それ以外の人には何でもない花だろう。
このように、その立場の人でないと分からない感覚というのがある。
それを自分が理解できないからといって、くだらないとか、不要で些末なものとか決めつけるのは20世紀の考え方である。
まあ、そうは言っても、仮設住宅より植木鉢にお金をかけるのは本末転倒である。
なので、病院アートはビジネスとしてはおいしくないのかもしれない。

2020/08/06

ホスピタルアートとは何か

きのうは、名古屋市立大学のホスピタルアートマネジメント講座(第5回)があった。
これは、なごやヘルスケアアートマネジメント推進プロジェクトが主催しているもので、毎回、病院アートの業界関係者を講師に招き、2時間ほど勉強会をする。
きのうの講座の内容はまた別の機会に書くとして、今日はそもそもホスピタルアートとは何なのかを書こうと思う。

ホスピタルアートをアートセラピーのことだと思っている人も多いようである。
しかし、ホスピタルアートとは、アートセラピーだけを意味するものではない。
都内のホテルを思い出してほしい。
ロビー、ラウンジ、廊下、部屋、いろいろな場所に絵画が飾られているかと思う。
ビジネスホテル、帝国ホテル、ラブホテル、どういうホテルを思い出してもよいが、ホテルはお客さんをもてなすところであり、インテリアにもこだわりがある。
かたや、都内あるいは地元の総合病院はどうか。
最近ではしゃれた病院が増えたものの、病院のなかは殺伐としており、絵画など飾られていないところがまだ多いだろう。
しかし、病院は入院患者が「住む」「暮らす」空間であり、ホテルと同じくらい「ホスピタリティー」が要求される、そういう新しい考え方(?)がある。
まあ、欧米ではそれほど新しくないが、日本ではまだ新しい。
白い壁の待合室、夜も眠れない病室、無機質な検査室、薄気味悪い手術室、どれも患者に不安を与えるので、アートでこの問題を解決しようということだ。





いや、私は殺伐とした病院でも気にならないネ。
病院は治療のための場所であり、ホテルとは違うんだヨ。
私はアートよりテレビで巨人戦を見たいんだナ。

こう思う年配の男性も多いかもしれない。
だが、自分の娘や孫が入院するとしたらどうか。
あるいは、死期の迫った自分の母親が入院するとしたら。
病院アートとは、広めに解釈すると、病院に「いやしの環境」を作るための方法論のひとつで、その方法としてアートを用いることである。
例えば、大病院にはふつう、緑の芝生やベンチのある公園があり、桜の木などもあり、春になると入院患者が車いすで桜の木の下へ行き、看護師さんとイチャイチャしていやされる、というようなことはたぶんないと思うのだが、病院のいやしの環境の典型例は公園である。
まあ、病院アートは、公園のような役割を果たし、患者にも病院関係者にもいやしの効果を与えることを目指している。

ただ、ホスピタルアートには課題がいくつもある。
何といっても、医師は合理主義者であり、この手の話に懐疑的なことが問題である。
また、病院は高度な医療機器のための予算は組んでも、効果の不明確なアートのための予算を組むのはなかなか難しい。
そのため、顧客が少なく、市場が小さいようだ。
まだ、病院アート市場は黎明期と思われる。
しかし、日本はいつも欧米を追いかけるので、時間をかけて変化するだろう。
このとき、アーティストと病院の中に入り、現場を仕切るのがアートディレクターである。
この職業人が少ないため、アートディレクターの養成も兼ねて、このような講座を開いているのである。
さて、講座はあと3回だが、終わったら続きを書くつもりである。