2023/09/23

オードリーヘップバーン語録(5)未来を心配してばかりいても仕方がない



先日、約半年ぶりに柳橋の東京タロット美術館に行った。
去年の今頃はここで節制のタロットを連続で引き、いまは我慢の時であると悟った。
節制とは大アルカナ14番目のカードである。
「予定通り」「うまくいっている」「調和」などの解釈がなされる。

結果はどうだったか??
おおむね、節制のとおりだった。
では、今回引いたタロットは何??

8、9月ともに、私は魔術師のタロットを引いた。






魔術師のタロットの解釈について、美術館のキャプションにはこう書かれている。

何かが始まる。
独創性。
挑戦する自信がある。
自分ひとりの力。

私は別に、魔術師を引いたからその気になって何か行動を開始するということはないが、確かにいま何らかの行動を促されていることについてはタイムリーであると思う。

「タロットカードの78枚のうち、22枚で構成されたカードを大アルカナといいます。アルカナとは、ラテン語で「神秘」「秘密」という意味で、大アルカナは番号と表題が書かれた寓意画となっています~中略~タロットを読む時は、直観が大切です。直観は考えるよりも早く、遥か遠くからやって来る「報せ」です。あなた自身に宛てられた、あなたが読めるように託されたメッセージです。見た夢と同じように、そのカードがどのように見えたのかが鍵となります。まずは、あなたが感じたことにフォーカスしてみてください。」(東京タロット美術館資料より)




別の日、私は三越前の福徳神社に立ち寄った。
いつものように、おみくじを引いたのだが、それをしばらく財布のポケットに入れっぱなしにして忘れていた。
開けていなかったので開けてみると、大吉だった。

願望 かなう、ただし油断禁物
仕事 いずれ日の目を見る
勝負 勝ちます、手加減した方が良い
恋愛 願うまま
転居 急げ






実は、これって見覚えのある内容で、3月に引いたのと同じ内容なのだ。
3月当時は気付かなかったが、よく考えると、恋愛願うままというのは大当たりではないのか。
普通に考えて、両想いでなければ、恋愛願うままにはならないからだ。
つまり、これは両想いの恋みくじなのである。

もっとも現実にはいろいろな障害があり、所詮はおみくじの結果なので、そのようにはならないのかもしれないが・・・第一に、そのようになるためには転居がイイようだ。

第二に、仕事いずれ日の目を見る、とある。
とすると、この仕事がうまくいくのかな!?とも思えるのだが、かなり手こずっているので、それは安易すぎる気がする。
ただ、仕事の成否にかかわらず、未来を悲観しなくていい、ということを示唆していると思われる!?

第三に、勝負は勝てる、手加減した方が良い、という。
そもそも勝負とは??
手加減しても勝てる相手、、、どんなお方と、どんな勝負をするのだろう。




最後に。
以前書いたように、書斎で資料探しをしたときに見つけた古いメモ帳に、女優オードリーヘップバーン(Audrey Hepburn)の言葉が書いてある。
この語録は、私が昔、何かの本から書き写したものだ。
今回開いたページには、たまたま、こんな言葉が書いてあった。

「私たちは全てを失った。家も持ち物もお金も。しかし少しも悲しくなかった。家族全員無事であることが最もありがたかった。」
「どんな日も、その日をとことん楽しむこと。ありのままの一日。ありのままの人々。未来を心配してばかりいても仕方がない。」

しかし、実はこれを読んだ私は、直観的に、マーガレットミッチェルの「風と共に去りぬ」のスカーレットオハラのセリフのように感じた。
私は、1936年の映画「風と共に去りぬ」の南北戦争に敗北して、彼女が丘の上で立ち尽くすシーンを思い出した。
このとき、国債が紙くずになったため、彼女は資産の全てを失ったのであるが、現在の世界と日本の状況を考えると他人事とは思えない!
今はまだ局地戦で落ち着いているものの、ウクライナから他所に飛び火し、戦争が拡大することは大いにあり得る。
もっとも、映画のスカーレット役はオードリーヘップバーンではなく、ヴィヴィアンリーである。






ヴィヴィアンリーは伝説の超美人ハリウッド女優で、オフィーリア、ジュリエット、クレオパトラなども演じている(ちなみに、サロメはリタヘイワース)。
私はテネシーウィリアムズ原作の名画「欲望という名の電車」に出てくる病的な彼女が圧倒的に色っぽくて美しかった、ということを覚えている。
実はこのときの彼女は双極性障害という病気に悩まされていたという。
ほかに慢性の結核の発作もあったという。
しかし、彼女は超美人で周囲の男性たちにとてもよくしてもらえたようなのだ。
50代半ばまで生き延びたのであるが、だとすると、超美人は50代半ばまでは美しいのかな、とも思った。

「ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh, Lady Olivier、1913年11月5日 - 1967年7月8日)は、イギリスの女優。1939年の映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役と1951年の映画『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワ役でアカデミー主演女優賞を受賞した。『欲望という名の電車』は、1949年にロンドンのウェスト・エンドで上演された舞台版に引き続いてリーがブランチ・デュボワを演じた作品でもある。また、1963年のブロードウェイ・シアターで上演されたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich) で、トニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞している。2度の結婚歴と離婚歴がある。元夫の一人にローレンス・オリヴィエがいる[2]。」
「リーは演劇学校を最初の結婚によって辞めた後の1934年〜35年に4本の映画に出演し、その後舞台『美德の仮面』で映画プロデューサーのアレクサンダー・コルダに認められ、1937年の映画『無敵艦隊』に出演した[3]。この作品でリーの美貌が評判となったが、リー自身は容姿ばかりが注目されることが必ずしも女優としての成功につながるとは限らないことを危惧していた。映画女優として有名となったとはいえ、リーは活動の主軸を舞台においており、30年にわたる舞台女優としての活動で幅広い役柄を演じた。ノエル・カワードやジョージ・バーナード・ショウらの戯曲をはじめ、演目もコメディから古典劇、たとえばウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』におけるオフィーリア、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、『マクベス』のマクベス夫人や、ジャン・アヌイがソフォクレスの「アンティゴネ」を翻案したアンチゴーヌなどを演じた経験がある。」
「リーは、当時の一般大衆からはイギリスの名優ローレンス・オリヴィエの2度目の妻としての印象を強くもたれていた。リーとオリヴィエは多くの舞台作品で共演し、映画作品でも3度共演している。リーとオリヴィエの結婚生活は1940年から1960年まで続いたが、リーは徐々に双極性障害に悩まされるようになっていった[4]。女優業を続けるのは難しいのではないかといわれ、女優としての仕事量の減少を経験した時期もあった。また、1940年代半ばごろからは慢性の結核の発作に見まわれるようになり、最終的にはこの慢性結核がリーの死因となった。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」では女優部門の16位にリーが選ばれている。」
(Wikipedia「ヴィヴィアンリー」より)

2023/09/21

自分で選んだ道だから、やるしかない










以前ブログに登場した飲食店SOYAを久々に訪問。何と、ここはスイーツ店に変貌していた! オーナーのOさんと話した。
「お店、儲かってそうですね♪」
「いや全然だめ! 実際は山あり谷ありです」
「まあ、みなさん実際はそうなんですよね」
「そうそう。でも自分で選んだ道だから、やるしかない」


2023/09/19

いとおしい

 






牛久シャトーのイベント「シャトーで休日を」。屋台風やきそばを食べてから、運営者の大山里奈さんたちと歓談。その後は「いとおしい」(糸の廃材を利用しているので糸惜しい)のブースをのぞいた。スタッフの素敵な女子大生が私のインスタを見るなり、フォローしてます!と即答。おお、まじか!(*'ω'*)


2023/09/06

I'm sorry for worrying too much(3)「私は、ここに、いますよ~♪」(*'ω'*)エッ??



銀座の三越でジュエリーの展示即売会があり、帰りがけに見に行った。ジュエリーデザイナーの女性とはコロナ前に会ったきりだし、彼女は眼鏡をかけており、私は分からなかった。が、あとでInstagramのStoriesに不思議な動画が流れてきて、無事再会できた。「私は、ここに、いますよ~♪」(*'ω'*)エッ??

※ジュエリーデザイナーの女性とは、これまでブログ記事に登場したMさんです

 

2023/09/03

ワイン&ラーメンの旅

 



ワイン&ラーメンの旅。まず馬喰町。この赤ワインはスペインのガルナッチャ(南仏のグルナッシュ)、つまり、ありがちな赤をあえて選択。実際、価格のわりに普通で退屈なワインだった。が、一見客に出すには無難かも。次は上野広小路へ。ここのラーメンは相変わらずおいしい(*'ω'*)


2023/09/02

司法書士の歴史、150年分を3分で(2)

司法書士会館展示、司法書士の歴史


前回は戦前の話、今回は戦後の話である。
司法書士法は戦後も何度か改められている。
まず昭和26年改正で、司法書士の認可制の導入、司法書士報酬の改定があった。
まあ、戦後体制に合わせるため、改正されるのは当然である。
昭和31年からは、司法書士の認可試験が始まる。
この認可試験は昭和53年まで続き、昭和54年からは国家試験となった。
今とは違って、認可試験は10月下旬に実施されていたそうである(手元の資料には、昭和31年10月 27・28日第一回目実施とある)。

そして、この認可は法務局(の局長)がするものであった。
この認可には恐るべきルール、認可後2年のうちに自分の事務所を開業しなければその者は認可の効力を失う、という「2年縛り」があった。
何だか携帯電話の契約みたいだが、ぼやっとしていて2年が過ぎると司法書士の資格を失うというトンデモナイ話である。

そうすると難関試験をまた受けなくてはならなくなるので、認可試験時代の司法書士は合格後直ちに独立開業したと言われる。
これを俗に「即独(ソクドク)」という。
司法書士試験の合格者の累計に比べ、実際の登録人数が少ないのも、たぶんこの影響があるのでは、と思われる。
また、手元の資料にはこの頃の司法書士の人数のデータも載っているのだが、これがなかなかおもしろい(ただし、昭和31年改正前は司法書士会に入会することがまだ任意だった)。

<東京司法書士会の会員数>
 昭和 28 年 5 月末日 210 名
 昭和 32 年 6 月 18 日 935 名
 昭和 33 年 4 月 25 日 1,002 名
(昭和 33 年 4 月 1 日全国会員数 11,332 名)

ちなみに現在の司法書士は2万2000人程度、当時のおよそ2倍である。
とすると、どう考えても、当時の司法書士は荒稼ぎしていたと考えられるのだが。
認可試験に合格後、2年縛りがあるので無理にでも独立開業、登録人数も少ないのでまもなく不動産登記の依頼があちこちから来る、これにより揉まれて鍛えられるような感じで成長したのだろう。
勤務司法書士があふれている現在とは大違いである。
さて、昭和の高度経済成長期、司法書士は登記業務で大きな利益を得たと言われる。
その利益は主に不動産登記によるものだった。
当時の日本には土地神話があり、不動産取引が非常に活発に行われていたためである。

地価は必ず上昇する。
不動産は買えば儲かる投資商品。
とりあえず不動産を買っておこう。


不動産登記事件数推移


不動産登記事件数推移
(以上、2019年司法書士白書より)


このような、不動産転売が当たり前の時代は1990年頃まで続いたが、不動産バブル崩壊後は市況が低迷し、不動産登記の案件は年々減少している。
また、商業登記の事件数もほぼ同様の推移である(いずれも上記写真の「司法書士白書」による)。
かたや、司法書士の会員数が大幅に増えた。
ということは、先ほど述べたとおりの状況になって当然だろう。
したがって、もはや全ての司法書士が登記業務だけで大きな利益を得ることは難しくなったが、平成14年改正で簡裁代理権を獲得するなどして登記以外の業務(債務整理、財産管理等)にも進出している。
今後は超高齢化社会を迎え、相続、財産管理、成年後見、事業承継支援等の依頼が増えていくと思われる。
以上、簡単だが、司法書士の歴史の話はこれでおしまい。


司法書士会館展示、司法書士の歴史

2023/09/01

司法書士の歴史、150年分を3分で(1)

ビジネスの世界には、エレベータートーク(エレベーターピッチ)という言葉がある。
自分の考えや要点等を、エレベーターの昇降時間の30秒~1分程度で、上司やクライアントに全て説明できなくてはならない、ということだ。
何事もひと言で、文章も談話も短い方がいい、ということだが、それは非常に難しいことである。
今回は私が、150周年となる司法書士の歴史を簡単に書いてみようと思う。


司法書士会館展示、司法書士の歴史


まず日本の歴史上、3つの法律職がある。
弁護士、司法書士、公証人である。
法曹三者という言葉もあるが、こちらは裁判官、検察官、弁護士のことを指す。
法律職と法曹三者は別の言葉である。

弁護士⇒代言人⇒訴訟代理人
司法書士⇒司法代書人⇒法律事務
公証人⇒証書人⇒公証役場

左から、今の呼称、昔の呼称、業務内容、である。
この3つの法律職は明治5年司法職務定制に由来するもので、当時は代言人、司法代書人、証書人と呼んだ。


司法書士会館展示、司法書士の歴史


司法書士の呼び名は最初「代書人」だった。
それが、大正8年に新しく法律ができて「司法代書人」と呼び名が変わった。
代書全般の中でも、司法(法律)に関することを代書する、ということである。
その後、昭和10年には「司法代書人」から「司法書士」にまたもや名称変更された。
司法書士は昔の名残で「代書人」「代書屋」と呼ばれることがあるが、「代書人」の部分を「書士」に改めた。
さて、「代書人」というと、行政書士も以前の呼称は「代書人」だった。
なので、ここは非常にまぎらわしいのだが、行政書士は司法省ではなく内務省の省令を根拠とする専門職である(現在は法律)。
つまり、司法書士と行政書士は監督官庁が違うのである。
例えば行政書士は警察署に提出する書類を作成し、申請を代理するが、司法書士は法務局に提出する書類を作成し、申請を代理する、といったように、監督官庁が違うと業務内容も違うのである。
また、司法書士と行政書士は、法律上「代書人」と呼ばれていた時期も違うのである。
例えば八百屋という同じ看板を、一時期はAが使っており、別の時期はBが使っていた、というような意味である。
それなら、もちろんAとBは別の人ということになる。
本当にもう、まぎらわしい歴史だねえ。


司法書士会館展示、司法書士の歴史


しかし、いずれにせよ、歴史を大きく遡ると、両者は「代書人」という肩書にルーツがある。
ここで言う「代書人」とは、明治5年の司法職務定制で定められる以前から日本にあった一般的職業のことである。
明治5年の司法職務定制で新しく生まれた資格制度の「代書人」ではなく。
実は、これが俗にいう時代劇などに出てくる「代書屋」なのである。

「おい、勝手に入るな、ここは奉行所だぞ、何の用だ??」
「すみません門番殿、今日はお奉行様にご相談がありまして。」
「どうかしたのか??」
「最近、妻と娘にいじめられております。夜も眠れないほど悩んでおります。」
「待て待て、お前の話はいつも感情的でややこしいから、簡単に話せよ。」
「そうでしょうか。」
「そうだなあ、書面にしてみてはどうか。」
「私は字が書けません。」
「いや、自分で書くのではない。そこの路地を入り、代書人山田太郎の事務所で事情を話し、詳しいいきさつを書面にしてもらってはどうか。まあ、少しはお金を取られるがな。」
「はあ、、、」
「その書面を持ってまた来なさい。そうすればお奉行様も事情が分かるから、いろいろと相談に乗ってくれるぞ。」
「そうですか、なるほど、そうします。」

いつの時代も金銭の貸し借りから男女の不貞行為まで、様々な契約(合意)や民事紛争があった。
その時に、文字を書けないと非常に困る。
証拠の借用書も、離婚届(三行半)も書けない、役所に出す上申書嘆願書の類も書けない。
昔は公立学校がなく、文字を書けない者も多かった。
なので、街角の代書屋は、難解な書類から何でもない書類まで、様々な書類の代筆を頼まれたのである。
そういえば、マルセルカルネのフランス映画「天井桟敷の人々」にも代書屋が登場していたので、代書屋は日本固有の職業ではなく、ヨーロッパなどにもあったようだ。
映画では、美男子が代書屋でラブレターを代筆してもらい、代書屋に金を払い、ラブレターを自分で書いたことにしていたと記憶する。

しかし、明治以降は教育が行き届き、手紙くらい誰でも自分で書くようになった。
書面に使う日本語も文語体から口語体になった。
他方で、明治以降は近代化で複雑な社会となったので、それぞれの専門分野で、高度専門的な文書を作成する専門職がなくてはならないものとなった。
かくして司法書士、行政書士、弁理士、税理士、社会保険労務士~こういった士業が生まれ、発展したのであるが、司法書士は法律事務に関する専門職として今に至っているということ。
以上、簡単だが、おしまい。
次回は、戦後の司法書士について書こうと思う。