2023/12/08

私のマドモアゼルルウルウを求めて

初詣の湯島天神は混んでいるが、年末は空いている。
初詣は自分勝手な願い事をするものだが、年末なら1年の無事を神様に感謝するだろう。
そんなお参りの仕方もあっていいと思う。
これを私は勝手に「終わり詣」などと名付け、手帳の12月の予定に書き込んでいる。
師走にホッとする時間が得られるので、わりとおすすめである。
(2019/12/26「湯島天神、恒例の終わり詣(2019年)」より)






12月6日は今年も湯島天神で恒例の終わり詣をしてきた。
御朱印帳を持参し、御朱印も書いてもらった。

受験生たちの絵馬を吊るすところの隣に、おみくじコーナーがある。
私はここで、普通のおみくじではなく、恋みくじの方を引いた。
境内のベンチに座り、恋みくじをあけようとすると、強い風が吹き、恋みくじが飛んでいきそうになった。
私はあわてて、恋みくじを手帳で固定し、もう一度あけようとしたのだが、寒さで指先が乾いていて、恋みくじの糊をうまく剥がせなかった。
仕方がなく、あとで開けることにして、恋みくじを財布のポケットにしまった。




こないだ記事に書いたように、今年は早めに自室や書斎の整理整頓をしている。
書斎の片隅には、本を書くときに集めた参考文献等の資料の束があるのだが、その束を1つ1つ片付けていくと、編集者との打ち合わせのノートが出てきた。
私は、コーヒーを飲みながら、そのノートを読んだ。
長い時間と回数を重ねて、実にいろいろなことを話し合ったものだ。
そういえば、ノートには書いていないが、編集者から、こんなことを言われたのだ。

「先生のエッセイブログは、おもしろいですよ」
「冗談でしょ?」
「私は休憩時間に読むことがあります」
「ええっと、、、あなた、まさか、私のエッセイの読者なの?」
「いえ、たまに読むだけなので、読者というほどではないですが」
「それでも立派な読者でしょ~が」
「そうですかね。あのエッセイは、内容がおもしろいと思います。それに、文章の書き方も、どこにも問題がありません。私は先生の法律の原稿に対しては、かなり厳しい注文を付けています。しかし、エッセイは、あの書き方でいいんです。プロ並み、といってもいいんじゃないかな」
「お褒めいただき、どうも、ありがとうございます。ただ、趣味で書いている雑記ですけどね」(笑)
「ええと、これは例えばの話ですが、もしエッセイが書籍化されるなどして市場で売れたら、エッセイで紹介されているアーティストや作品が、一緒に注目されることもあるかもしれません」
「ああ、なるほど。でも、かりにそうなったとしても、実際にその人の絵が売れるのかな」
「どうなんでしょうね。最近は出版不況です。私の言うことはアテになりません」
「いえ、分かりませんよ。案外うまくいったりして」(*'ω'*)

ただ、これは、ビジネス書ではなく、エッセイや小説の世界の話である。
エッセイストや作家は、アーティストと同じようにクリエイターであり、趣味にとどめるならいいが、仕事にするとなると非常に厳しいのではないか。




さて。
エッセイストというと、私的には、森茉莉である。
森茉莉というと、7月14日から10月1日まで、千駄木の森鴎外記念館で森茉莉の展示会があった。
私は一度、7月中に見にいっていて、その後、9月2日の朗読会に参加する予定でいたのだが参加できなかった。
そのため、森茉莉の展示会のことを書くタイミングを逸していたのだ。
年末に、忘れないうちに、書いておこうと思う。

以下、私の手帳のメモ欄より抜粋した展示会の雑感。

森茉莉。
54才で「父の帽子」で日本エッセイスト賞受賞。
彼女は親に甘やかされ、かわいがられ、何不自由なく育ち、好きなことをして自由きままに生き、自分のために生きた。

彼女は美意識(エレガンス)を重んじるエッセイストである。
ただ、彼女の年譜を見ると、鴎外の作り上げた偉大な世界が、彼女に何らかの悪い影響を与えたようにも見えてしまう。
つまり、うちの子はこうでなくてはいけない、という家の呪縛や親の呪縛のようなものである。

2度の結婚に失敗。
相手は文学者、医者である。
2度目の結婚は、1年未満で離婚となった。
以後、弟と暮らす~弟の結婚後は独り暮らし。

キャプションには、森茉莉は書くことにより幸福(自己肯定と自己発見)を得た、と書いてある。
私は、彼女は書いて自分自身を見つめ、気楽になれたのだと思う。




なぜ彼女は再婚しなかったのか。
これについては、私が2020/04/26「マドモアゼルルウルウ」の記事に書いたことが、ひとつの答えになっているような気がする。

次に、「マドモアゼルルウルウ」。
こちらは、ジイップというフランスの女性作家の戯曲を、森茉莉が和訳したもの。
14才の生意気なお嬢様ルウルウが、ひたすら男の悪口をいう。
同年代の美少年も、20~30代の若い男もルウルウの好みではない。
ルウルウの好みは40代以上で、実は、パパの友達で家によく遊びに来るモントルイユという50才ほどの紳士(インテリで遊び人のおっさん!!)が好みなのである。

「~また、非常に頭のいいために男というものに不満で、くだらない男より動物のほうがいいというので動物に夢中だったといいます。彼女は少女のときに、モンテスキュウに可愛がられたそうです。上流の家に生れて、馬鹿げた因襲、虚飾に反抗して、男の悪口をいい、動物に夢中になっているルウルウはジイップそれ自身のようです~」(森茉莉の序文)

本のセリフにあるように、ルウルウの理想の恋愛は、ドラマのような洒落たもの、気取ったものではなく、ただただ子供っぽいものである。
つまり、森茉莉も、ルウルウも、ジイップも非常に頭のいい女性だが、そのような女性は得てして、かなり年上の男性が好みで、その男性から子供のようにかわいがられたい、その男性に子供のように甘えたい、と思っているということである。




以下、2018/11/01「第1部・Let's Have Tea Together」より。

「書くということは、いいことである。自分の中にある思いが、書くことによって、1つの確かな形をあらわすからだ。わたしはその形を、第三者のような目(とまでは言えないにしても)で、かなり冷静に自分の姿を見つめることができる。生きるとは先ず、自分自身の姿をみつめることから始まると、わたしは考えている。自分がいかなる者かをわからぬままで、自分の生きる道を探しあてることは不可能のような気がする。」
(三浦綾子「生きること思うこと」)

もともと私にとって書くことは、読者への自己表現ではなく、自己発見のための手段であった。

人生は、好きなものを追いかけて生きるほうがいいわ。それはしばしば困難な道で、選びにくいのよ。他方、好きではないが楽な道もあると思いますが、そちらを選ぶと年をとったとき、後悔するんじゃないかしら。

これは、ワインのT先生からの素敵なアドバイスである。
T先生のこのアドバイス、意外にも、2018/12/10「好きな人の役に立てる時代」で、すでに私自身が考えていたことと、ほぼ同じだった。
エッセイも、愛がなくては書き続けられないということだと思う。
やはり、人生の選択においては、好きか嫌いかが、非常に重要な判断基準となるのだ。
なぜなら、嫌いな人と一緒にいたり、嫌いなことをしていると、うまくいっているときはいいが、厳しい状況で耐えられないからだ。
ということで、好きな人のために好きな仕事をする、というのが単純に正解である。
私は、そ・こ・に、トコトン、こだわる!のがイイ、と思っている。
まあ、実際は、どうなのだろうか、と思うこともあるのだが、ただ私はやはり、人生をどう生きるか考えるとき、後悔なく生きたいと思うのだ、、、

では、いよいよ「私の」マドモアゼルルウルウはどこにいるのか、ということだが、、、それは、アーティストなのだ。

私のマドモアゼルルウルウ!を求めて。。。

私は、アートあるいはアーティストもまた、タロットカードのように示唆に富んでおり、私にとって運命的なものだと思っている。

めぐり合うアートはいつでも、その時々の私自身の鏡だった。

私は理想的なアートとはどのようなものかについて考えたことがあるが、その時々の市場価格、人気、評価等に関係なく、自分にとって重要な意味があるかどうか、あるいは、あったかどうかで主観的に決めるのがいいと思っている。

また、非常に主観的なことをいうようだが、そのようなアートを生み出したアーティストは私にとって何よりも、永遠に大事な人なのである。

では、私の目に映る理想のアートとアーティストとは??

オトナになっても子供のようにワガママで、子供のようにはしゃいだりスキップしたりすることもある、子供のように怒って私を攻撃することもあれば、泣いて部屋に閉じこもってしまうこともある、恥ずかしがり屋なのか、ずうずうしい人間なのか、一体何を考えているのか分からない、それが私の目に映る理想のアーティスト、それはアートそのもの、それが私のマドモアゼルルウルウ!である。

2023/12/05

サロメ、あるいは、なぞうさ?

2023年12月から、今シーズンのMETライブビューイングオペラがスタートした。
しかし、上映スケジュールを見ると、2024年3月まで、私の見たいオペラがなかった。

今回は、久しぶりにオペラのことを書こうと思う。

そういえば9月、私は銀座の東劇で、METライブビューイングオペラを2本見ていた。
1本は、こないだブログに書いたプッチーニの「トゥーランドット」である。
もう1本は、これから取り上げるリヒャルトシュトラウスの「サロメ」である。
これは、オスカーワイルドの戯曲をもとにしたものだが、原作とはチョット違うようだ。

上映が始まると最初、「愛の謎は、死の謎よりも深い」という意味深な言葉が、ナビゲーターの女性から提示された。




確かに彼女の言うとおりである。
第一に、「サロメ」は”愛と死の物語”である。
しかし第二に、この物語は、”サロメの満足の物語”でもある、と私は思う。
彼女は潜在的に愛する者との死を望んで生きているが、ちょうどいい相手の男(預言者ヨカナーン)を見つけたのだ。

第三に、「サロメ」の物語は、”オトナが子供に害悪を与える話”だと思う。
美貌を極めたサロメはその肉体をさらし、黙って踊るだけでいい。
王を虜にし、欲しいものを与えるといわせてしまう。
しかし、預言者ヨカナーン、あるいは他の宗教家たち(劇中で何人も登場する)、彼らはサロメとは対照的存在である。
彼らはオトナであり、魅力がない老人たちであるが、それゆえに、もっともなことや正しいことを喋る必要がある、正義面をする必要がある。
そして、ほどよくバランスを取っているかに見える人物が王である。
これはこれで、その言動と享楽主義を見ていると、どこかバカげている。
いずれも極端なキャラクターで違和感がある。

「サロメ」では、王が最も優れたバランス感覚と秩序の精神と人間的魅力を発揮している。
いつの時代も民衆は愚かで、ほどほどの人物が王になる、ということではないだろうか。
ドラマの最後で、王は娘のサロメを殺すように命じ、舞台から立ち去る。
これは王の政治的決断である。
第四に「サロメ」の物語は、”政治家が決断をして愚かな民衆の騒動をおさめる話”だと思う。

「サロメ」は2時間ほどの短編オペラで、1幕だけで終わった。






後日、タルトタタンを初めて食べた。
ずいぶん赤いので、あんずジャムでできているのか、と思い、支払の時、店員に聞くと、やはり、リンゴジャムだった。

私は、手帳のメモ欄を開き、このようなことを書き込んだ。

もしサロメのように異常に美しく、異常に淫乱で、異常に女王様ぶっていて、異常に子供っぽい女性がいるとしたら・・・それは扱いにくくてもイイ女だ。
私は彼女のことを愛してしまうかもしれない。
その場合、彼女の秘密や過去が気になっても詮索するべきではない。
理解者とは、彼女の内面や過去を何でもよく知っている人、ではない。
むしろ彼女に関する本当のことは、ぜんぜん知らなくたっていいが、彼女のことは何でも受け入れる精神を持つ、ということだ。

続いて、「サロメ」のあらすじについてコメント。

リヒャルトシュトラウスの「サロメ」とは違い、ヨカナーンを助けようとする筋の、他のサロメもある。
むしろこちらが彼女の心情に照らしてオーソドックス。
いずれにせよ、本当は、殺すつもりはない。
彼女は権力者により自由と権利を制限されていて、イライラしている。
彼女の殺意の対象は、むしろ権力者の王の方に向けられているが、実現できないだけではないか。
王(父親)はサロメを愛しており、また、ヨカナーンを幽閉している。
2人とも王の権力下で身動きがとれない。

もっとも、いまは自由と人権の時代である。
移動も簡単にできるし、住まいも余っているし、至急で何でも手に入る。
現代版の「サロメ」なら、意中の男性を殺すこともなければ、助ける必要もないだろう。
例えばの話、メールや電話で呼び出して、どこかで逢引きをして、駆け落ちも容易にできるのだから。
もし私が現代版の「サロメ」のシナリオを書くとするなら、オチは駆け落ちでハッピーエンドかなんかでいいと思う。

さらに、タルトタタンのジャムについてコメント。

私はタルトタタンを食べながら、あんずジャムではなく、ローズジャムかもしれないとも思った。
ローズジャム、、、それはレアなジャムである。
去年3月、銀座のローズギャラリーという花屋で、花を贈るついでにローズジャムも買ったのだが、最初は自分で食べようとして買った。
しかし、花屋を出た後、近くの喫茶店に入り、そこでサラダを食べているうち、考えが変わった。








喫茶店を出ると、私は花屋まで戻り、店員に、やっぱりこのローズジャムは花と一緒に贈ってほしい、と頼んだのだった。
当日配達で、時間もなかったため、私は花屋の店員に足代を払い、女性店員が直接、手渡しで届けてくれることになった。
後日、受け取った相手の反応をメールで教えてもらった。
ご指名どおり、本人に直接渡したが、とても喜んでいた、花屋としてのプライドに賭けてそれは本当である、との返事であった。

帰宅後、私は書棚から去年の手帳を取り出して見た。
去年3月、私は喫茶店で手帳のメモ欄に、このようなことを書き込んでいた。

家に帰ると、私はサロメにローズジャムをプレゼントする。
サロメはご機嫌になり、朝食の食パンに付けるとおいしそうだと言って、冷蔵庫にしまう。
しかし、サロメは食いしん坊で、夜中に寝ぼけて、冷蔵庫をあけて、つまみ食いをする習慣がある。
早速その日の夜中、サロメはローズジャムをすべて、なめてしまう。
翌朝起きると、食パンに付けるローズジャムがなくなっている。
自分で食べておきながら、サロメはそのことにひどく腹を立て、私に対し、ローズジャムのおかわりを断固要求してくる。
彼女のワガママに手を焼いた私は、直ちに着替え、朝食抜きで、急いで家を出る。
銀座のローズギャラリーの開店と同時に、ローズジャムを買い占める。
そのことを報告するとサロメは機嫌を直し、私は事なきを得る。

私は、スマホを指でなぞり、Googleフォトのアーカイブをたどった。
ちなみにこれは去年9月に見たアート作品だが、柏市役所の隣のラコルタ柏の雑貨屋の展示スペースで見たものである。
「なぞうさ」というようだが、なかなかユニークなキャラクターである。

う~ん・・・「なぞうさ」ねえ、、、(*'ω'*)








2023/11/30

ウン、これなら間違いない。確かに、あなたは本を出したわ



本は売ってナンボである!

私の終活本が発売されて3週間が経過した。
そこそこ売れているのだろうか。
発売初日、セブンのネット通販で品切れになっていた、ということは聞いていたが、それ以外、めぼしい手がかりがなかった。
また、編集者によれば、データ不足で詳細は不明ですが、まったく売れてないってことはなさそうです、とのことだった。

しかし、きのう用事のついでに立ち寄った丸善本店で、私は自分の本が平積みにされているのを見た。
これなら、まったく売れていないってことはなさそうである。






丸善本店は、東京駅の丸の内改札のすぐそば(丸の内オアゾ)にある。
この光景を見て、私はホッとして、家に帰ることができた。

夕食はグラタン。
食べながら私は、スマホの写真をママ殿に見せた。
「ママ殿、私は少し安心できました。丸善本店で平積みされていたのだから、まったく売れていないってことはなさそうです」

ママ殿は老眼鏡をかけた。
売り場の平積みの写真を食い入るように見つめ、「ウン、これなら間違いない。確かに、あなたは本を出したわ」と言った。
私は微笑んで、「なるほど、それはいえてますね」と答えた。

そもそも私は売れっ子作家ではないのだし、これはビジネス書なのである。
私の本は書店に何列も積まれていないし、他の人が終活の本を書けばいいのかもしれない。
なので、自分自身でもPR活動が必要となる。

そこで私は、ブログやSNSでの告知のほかにも、出版社からもらった見本を配ったり、メールやハガキ等で知っている人などに案内状を出したりしている。
また、こないだ書いたように、自分の本を持ち歩き、外出先で自己PRに使うこともある。




さて、ここからは、ママ殿のマーケティング戦略のことを話そう。
先週、私は久しぶりに、上野広小路のあんみつみはしへ行った。
あんずあんみつを食べ、スマホを眺めていると、ママ殿から1通のメールが届いた。
読むとそこにはママ殿のPR活動についての報告が書かれていた(*'ω'*)

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ママ殿⇒私へのメール
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昼間、病院の待合室で、この本を読んで過ごしたよ。
表紙が見えるので、まわりの患者さんが注目すると思って。
でも、あいにくの雨で患者さんが少なくて、残念。
眼の検査、大丈夫でした。
夕食は、ハンバーグ。
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私⇒ママ殿へのメール
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了解。
いま、上野広小路の喫茶店です。
6時頃に帰ります。
夕食は食べます。
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帰宅後、夕食はハンバーグを食べた。
このとき、私はママ殿に書店の陳列について思うことを話した。

東京の丸善や紀伊国屋書店、駅ビルの書店では、私の本が平積みや立てかけで目立つようになっている。
が、くまざわ書店は縦置きで1冊、書棚に入っているのみだった。

もともと1冊しか仕入れていないのか、もっと仕入れたが売れてしまったのかは不明だ。
が、我が家の場合、本はだいたい、くまざわ書店で買っている。
もっと仕入れてほしいな、1冊だと目立たず、埋もれてしまう、、、と私が言うと、ママ殿はハンバーグをモグモグしながら、無言でうなずいた。




数日後。
私は午後から時間を作り、日本司法書士連合会主催の事業承継シンポジウムを、オンラインで視聴した。
以前の記事で何度か登場した司法書士のM先生、彼が最近、何か新しい事業をしてみたいといっているのだ。
このタイミングだと、終活本を出したばかりの私としては、一度お蔵入りとなった事業承継コンサルがいいのではないか、ということになる(2021/11/07「事業承継コンサルタントで起業をしませんか」)。
なぜなら、事業承継は、経営者の終活の延長線上のことだからである。

というような経緯で、私は事業承継シンポジウムに参加していたのだが、パネルディスカッションの最中に、ママ殿からメールが届いた(*'ω'*)?

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ママ殿⇒私へのメール
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さっき、買い物ついでに、本屋にいってきた。
この本、息子が書いたんです、●●の近くに住んでます、と女性店員さんに言ったら、パソコンを開いて、地元の人の書いた本ということで、店員さん、何やらブツブツいいながら、本の概要をプリントアウトしてましたよ。
店内のどこかに貼って宣伝してくれるのかなぁ。
嬉しくて、帰りにケーキ買っちゃった。
対応した女性も嬉しそうだったよ。
棚に入っていた本は、表に出して、横置きにして帰ったさ。
お刺身を買ったのに、ネギ買うの忘れたから、帰り、買ってきて。
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私⇒ママ殿へのメール
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了解。
ネギ買った帰りに、のぞいてみます。
6時頃に帰ります。
夕食は食べます。
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帰り道、私はそれとなく、くまざわ書店の売場をのぞいてみた。
アッ、本当だ!
ママ殿の仕業(?)で私の本が、他の本の上に出しっぱなしになっている。




どうせなら、右隣の「大賞」受賞の本の上に、置いてほしかった(*'ω'*)...
ムムム、、、私も負けずに、PR活動を頑張ろう!

家に帰って、リビングに入ると、応接のテーブルに花束が飾ってあった。
近所の奥さんが届けてくれたお祝いの花束だという。

「素敵な花束ね。あなた、何かの賞をもらった人みたい!」とママ殿は嬉しそうに言った。
「いや~、私は作家ではないのです。私もよく知らないのですが、小説などとは違い、ビジネス書、実用書のジャンルだと、賞はないみたいです」
「あら、そうなの。ところで、ネギは、買ってきたの?」
「はい」
「さあ、ご飯にしましょう♪」




実は、ママ殿は遠い親戚や古い友達まで、あちこちに私の本の出版を報告している。
ママ殿にしてみれば、ダメな息子が珍しく自慢できるようなことをしたから、言わずにはいられない、ということなのだ。

私はこれまで、本が売れなかったらどうしようとか、間違いがあったらどうしようとか、悪いことばかり考えていたような気がする。
しかし、この本が売れてほしいのはもちろんだが、売れる売れないにかかわらず、親孝行になったんだ、と思った。

12月1日、追記。
最寄りのくまざわ書店にいってきたのだが、拙著が追加で入荷されていた。
レジの女性店員さんに挨拶すると、問い合わせは何件も来ているとのこと。
早速、ママ殿にメールして、買い物帰りに現地視察をするよう伝えた。




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私⇒ママ殿へのメール
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くまざわ書店、エンディングノートの書棚に1冊と、その脇に、平積みで5冊です。
店員さんに挨拶したら、問い合わせは何件も来ているそうですよ。
新しく仕入れたのかな?
今のうち、急いで、見に行ってください。
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ママ殿⇒私へのメール
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いま行く!
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私⇒ママ殿へのメール
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了解。
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ママ殿⇒私へのメール
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ありましたよ。
初めは影を潜めていた感じだったけど、もう堂々として「オレを見てくれ」なんて言ってるみたいだったよ。
ヨッシャ!!
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2023/11/18

コンスタンチンシェルバコフのラフマニノフ



本を出したので、次は新しいことを始めようと思っている。
しかし、その前に、ひと息つきたいのだ。

そこで先週は、出光美術館でやきもの展を見てきた。
ただ、レアなやきものの数々を見ても、私は気分転換できなかった。
出光美術館は、居心地のいいところなのだが、、、誰もが黙って、ウィンドウのやきものをじ~っと眺めている。
私は、息詰まる空間を出て皇居の見えるラウンジへ。
紙コップのお茶を飲み干して皇居を見下ろすと、空はモヤモヤしていた。




法律の本の執筆は内向きで抑圧的な仕事である。
講演と違って、相手がいない。
自宅の一室で、長時間パソコンと向き合う。

執筆のリフレッシュのため静かな美術館でやきものを鑑賞するというのが、そもそもの間違い。
私は、このような空間では、今回にかぎっては、リフレッシュできなかった。
その後、コンサートを聴くため、私は銀座へ。
5時過ぎ、8丁目の居酒屋「元酒屋」に顔を出した。

「お久しぶりですね!」と私。
すると、シェフのSさんは開口一番、「今日は、ひとり飲みですか?」と言ってフシギな顔をしてみせた。
私は予約席でない小さなテーブルの席に座り、お酒のメニューを眺めた。
しかし、コンサート前に食べ過ぎたり、日本酒を飲んだりすると眠たくなるのでやめた。
私は、この居酒屋で単品で破格の1400円、メニュー表でやけに強調されている「特製」ハヤシライスを注文した。






ムムム、、、
ジューシーな牛肉が入っており、これは、サイコロステーキ風で、非常においしい(*'ω'*)!!

会計の時、シェフのSさんと話した。
私はハヤシライスについて質問をした。
ハヤシライスは辛くないカレーということではないのかと。
すると、カレーライスはカレーライスで、ハヤシライスはハヤシライスです!とのこと。

なるほど、、、ハヤシライスはカレーライスの仲間ではないのか。
ただ、この日の私にとって、ハヤシライスは刺激のないカレーのようなものだった。

店を出るとすっかり暗くなっていた。
私は築地市場駅の方へ歩いた。
10分ほどで、朝日新聞社に着き、社屋内の浜離宮朝日ホールに到着。
このホールに来たのは、2018年9月、チェンバロのデュオを聴いて以来で、久しぶりだ。
ここで開催されるコンサートは、どちらかというとジミ系で、私はあまり興味を惹かれない。
が、コンスタンチンシェルバコフのラフマニノフは一度聴きたくて、早くに良席のチケットを買っておいた。




コンサートの開始まで、まだ30分近くある。
座って待っていると、近くの席で数人の医者が、とても気になる雑談を始めた。

「ぼくは、もういつ死んでもいいと思ってるんです」
「きみは私より若いのに、ずいぶん早いんだなあ。もう少し前向きになりなさいよ。誰かとどこかへいって楽しむとか」
「でも、ぼくは、いま、人間不信なんです」
「そりゃ、まあ、医者をやってりゃ、しょっちゅう、そうなるけど・・・それじゃ、ひとりで楽しいことをすればいい。食べ歩きとか」
「最近、食欲がないんです」
「働きすぎなんだよ。疲れると食欲もなくなるでしょ。で、最近は何を食べてるの?」
「サプリメントです。栄養的にはそれで十分だし、もう、料理するのもめんどうくさくて」
「医者の主食がサプリメントとはねえ・・・きみ、それじゃ、75才までうちの病院で働けませんよ!」
「65才まで働くのだって、ウンザリなんですけど。人生100年なんて、やってられませんよ」
「まあ、そう言うなって。きみの気持ちは分かるよ。でも、もう少し頑張りなさいよ」

「ねえ、そういえば」と別の医者が口を挟んだ。「今日久しぶりに会った◯◯先生は、何でまだ現役で働いてんのかなあ?」
「ああ、彼の家は借金があるみたいだから」
「へ~、どうして? 教授なのに」
「息子を医者にしたいから、お金を注ぎ込んでいる」
「私立なのか。で、どこの医学部なの?」
「◯◯大学医学部」
「へ~、あそこか。でも、今どき、無理に医者にならなくたっていいのに、よくやるね~」
「結局、お家のメンツなんですよ」
「メンツねえ、、、」

私は、この家の息子は、自分の好きなことを仕事に選べばいいのではないか、と思った。
そうすれば、今の時代、親は息子に医者になれ、と言わないのではないだろうか。

その後、彼らは最近聴いたクラシックコンサートについて話し始めた。
しかし、先ほどとは打って変わって、楽しそうに、あるいは興奮気味に話していた。
彼らにとってクラシック音楽は生きる糧なのだ、ということがよく分かった。
それでは私にとって、生きる糧とは何なのか、と考えた。




シェルバコフの演奏が始まった。
実は、2023年はラフマニノフイヤー(生誕150周年記念)である。
第1回ラフマニノフコンクール優勝者の彼は、もちろん、ラフマニノフの曲を最も得意とする「超絶技巧」の演奏家である。

彼は前奏曲をメインに、ラフマニノフの曲「だけ」を演奏した。
が、それは音大の教授にありがちなおカタい演奏で、私にはチョット刺激が足りなかった。
ただ、見方を変えれば客観的で抑制されており、オトナの落ち着いた演奏であったといえる。
要するに彼の演奏は、あの医者たちのようなマニア、あるいはクロウトに向いているのだと思った。

家に帰ったのは11時過ぎ。
私は財布の中のレシートを整理した。
そこに入っている出光美術館のチケットと、コンサートのチケットを、取り出して眺めた。
執筆という内向きの仕事を終えた私にとって、美術館のやきものも、クラシックのコンサートも、いまいち、リフレッシュにならなかったのだ。

さて、次は、どこへいこう(*'ω'*)?

2023/11/13

(第4部)名画「舞踏会の手帖」を紐解く

こないだ担当の美容師に見本を届けたが、以前、この美容室で彼女が不在のとき、スタッフが映画好きというので、「舞踏会の手帖」という古いフランスの名画を紹介したことがある。
監督は大御所ジュリアンデュヴィヴィエで、確かこのような内容だと記憶する。

主人公は豪邸に住む資産家で、夫が早世し、未亡人となった美女である。
彼女はさみしそうにして寝室に滞在しているが、学生時代に憧れていた人たちがいま、どこでどうしているだろう、と想い起こす。
ふと、寝室の机の引き出しをあけると古い手帖があって、彼女が手に取って開くと、手帖には、当時、舞踏会のときにステキだ!と思い、連絡先を交換した男たちのことが書いてある。
それを眺め、彼女は、昔の男たちを訪ね歩く旅に出る。

しかし、彼女は行く先々で、当時憧れていた男たちの転落ぶりを目の当たりにするのだ。
例えば、芸術家OR作家?志望のハンサムな青年は自殺しており、玄関に出てきたのはノイローゼの母親なのである。
医者になった男の自宅を訪ねると、彼はいま持病を患っていて手が震えており、まともな診察ができないもぐりの医者となっている。
堕胎手術の件で訪ねてきたのか、と彼女に失礼なことを訊く。




ほかはめんどうなので省略するが、どの男もモンダイがある。
そして、最後から2番目に登場する小太りでブサイクな男が最も幸福そうに見える。
彼は小さな床屋を夫婦で経営している。
子供に囲まれ、平凡で質素に暮らしているのだが、「ささやかな幸せ」としてそれが見事に描かれているのである。
彼が舞踏会でカッコよかったのかは定かでないが、恐らく、カッコよくなかっただろう。
だが、少なくとも、現在の彼は不幸ではない。
逆に、舞踏会でカッコよかったグループの男たちは、彼女が訪ねた限りでは、総じて不幸になっているのである。
ここに、ひとつの人生の教訓が読み取れそうだが、それに同意や共感ができるなら、お相手を選ぶ場合には、理髪師や美容師がひとつの選択肢となるだろう。

美容室でスタッフに話したのはここまでである。
しかし、主人公の彼女はこの理髪師の男に対して魅力を感じていないし、この家族をうらやましいと思わなかった。
床屋の次のラストシーンで彼女は美少年と出会う。
若すぎるので彼女は彼を養子にするのだが、保守的な時代背景もあってか、彼女は再婚しなかった、というか、結婚できなかったのだ。

私は、彼女がもともと夫を愛していなかった、と推測する。
まず、名誉と財産ほしさに、好きでもない資産家の男と結婚し、我慢の時代を過ごしたようだ。
その後、夫が早く死んで遺産が入ると、寝室の机の引出しから「舞踏会の手帖」を取り出した。
手帖を紐解き、リストアップされた男に会いにいくための旅に出た。
彼女の旅は、愛する夫が死んで、その傷をいやすためのセンチメンタルな旅ではなく、ある意味、彼女自身が予定していた旅である。
その目的は、眠っていた自らの欲望をみたすための相手探しである。
ということで、フランス映画は、上品なようで、実は生々しいのである。

最後に。
それで、ふと思い付いたのだが、、、私もチョット「舞踏会の手帖」のまねごとをしてみようと思うのだ。
私は、本を出したので、次は新しいことを始めようと思っている。
しかし、その前に、ひと息つきたいのだ。

私は、スマホの連絡帳を開き、画面を指でなぞった(*'ω'*)フムフム
第4部では、それを眺め、私は昔の女たちを訪ね歩く旅に出る。。。

というのは冗談で、私の場合は「舞踏会の手帖」のまねごとといっても、趣旨も目的も異なる。
知り合いに拙著のPRをするための旅である!?

本は売ってナンボ!

まずは早速、発売日前夜、終活講談でおなじみの講談師神田織音さんと記念撮影をさせていただいた。


(講談師神田織音さんと)


(ライブペインティングアーティストSTONE63さんと)


(STONE63さんの作品と)


(近所の美容室の担当の美容師さんと)

2023/11/10

私の書いたことが本になるなんて(2)



11月10日、私の終活本が発売された。
上記写真は、著者の私が出版社からもらった見本である。
早速、周囲に何冊か配った。

本書には3人のキャラクターが登場する。
あんみつ先生、吉田健二さん、奥さんの吉田小春さん。
そのうち、吉田健二さんにはモデルがいる。
私は去年おととし、創業スクールにコーチとして参加したが、そこで講師を務める起業支援コンサルタントの吉田雅紀先生である(なお、これまでブログではY氏として登場していた)。

もちろん吉田先生には、私から1冊献本しなくてはなるまい。
ということで、連休明け、早速、サイン入りの拙著を事務員さんに預けてきた。




11月7日。
この日は午後から日本橋のABCクッキングに行く用事があったが、それまでの時間、ママ殿と一緒に、実家の墓参りをしてきた。
境内の水道で私が水を汲んでいる間、ママ殿は先に墓地の敷地に入っていた。
私が着くとすでにお花を供えており、ママ殿は私の本を墓に向かって見せ、何か語りかけていた。
春先から体調が悪かったママ殿だが、私の本が出たら、私の本を参考にして自分も終活をしたい、と言っていたのを、私は思い出した。
私の終活本が読者の役に立つのは幸いだが、、、実際ママ殿の終活の役に立つとは何とも、、、

終活とは死ぬ準備=「墓」に入る準備である。
「墓」と「終活本」の相性は抜群!
とはいえ、「墓」の前で「終活本」の出版を報告するというのは、何ともユニークな光景であった。

墓参り後はちょうどランチタイムになり、ふたりで日本橋へ。
天ぷら屋で天丼を食べた。
料理が出るまでの間、ママ殿は暇つぶしに私の本をぱらぱらと眺めていたが、巻末の発行日の記載を見て、とても驚いていた。
雑誌などもそうだが、本には、発売日ではなく、「発行日」というのが設定されている。
私の本の初版の発行日は、2023年11月10日となっている。







「まあ、驚いた。あなたの本の発行日は11月10日なのね」
「ああ、それね、、、発行日と発売日は普通、違うんですよ。フシギですが、本は発行日前すでに発売されているんです。でも私の本は、発売日も発行日も、11月10日なんです。ちなみに、11月10日は何の日か知ってますか?」
「あのね、この日は、おじいちゃんの命日よ」
「ええっ、そうなの?」
「そうよ。だから、今週お墓参りに来たんじゃない。おじいちゃんは11月10日にガンで死んだの。死ぬ直前、あなたを連れてお見舞いにいったんだけど、覚えてないの?」
「う~ん、昔のことなので、思い出せません」
「まあ、あなたの親じゃないものね」
「そうですよ」
「じゃあ、11月10日って、いったい何の日なの?」少し考え込んで、「誰かの誕生日・・・まさか、あなたの好きな女性のお誕生日じゃないでしょうね!?」
「ええと、実は、、、」
「実は?」

そのとき、店員が料理を持ってきた。
「お話のところ、すみません。お味噌汁が熱いので、お気を付けください」
「ど、どうも」と私。「この天丼、濃厚で、おいしそうですね」




「ねえ、実はどうなの?」
「実は、この本の発行日の11月10日は、私の大好きな女性のお誕生日かもしれません♪」
「何よ、その曖昧な言い方は」
「知りたいですか?」
「いや、別に・・・知りたいわけじゃないけど・・・ブツブツ・・・ただ、気になるだけよ」
「どうして?」
「母親なら当然のことです。。。」
「なるほど」私は以前書いた、好きと気になるの違いの記事を思い出した。「そうですか。気にしてくれるのはありがたいですが、ジャマはしないでくださいね。さあ、食べましょう♪」
「ジャマ・・・ブツブツ・・・」


「・・・・・・・」


(コレド日本橋のABCクッキング。すかさず、終活本をアピールするが、反応がイマイチ・・・)




(日本橋高島屋向かいの丸善書店へ)


(親戚や知り合いからも、書店に置いてあるとの報告があったが、本当だった(*'ω'*)//)


(最近、お気に入りの日本橋高島屋の黒澤文庫)






(冗談半分で、「私の本も置かせてほしい」と店長に言ってみたが・・・実用書の置き場がないという)


(ためしに小説の書棚に入れてみたが・・・明らかにジャンルがおかしい)


(もし置くなら、ここがふさわしいような気がする。大好きなあなたへのプレゼント!?)