2019/08/10

The Chronicle of Noble Lady(5)東京芸術劇場の冒険

きのうは銀座の資生堂パーラーでクッキーを予約したが、今日の午前中そのクッキーを受け取り、私は銀座から新宿御苑へ向かった。
もちろん、このクッキーは私の3時のおやつではない。
午後から東京芸術劇場でジュニアフィルハーモニックオーケストラのコンサートがあるのだが、指揮者と学生楽団員たちへの差し入れ(おみやげ)である。
私は新宿御苑で、クラシック音楽の師匠Iさんと待ち合わせ、車に乗り込んだ。
Iさんの車は住宅街の狭い道を疾走し、鬼子母神の参道に入ったが、そこでIさんは運転手に、池袋警察署の方から芸劇の裏手に回るように言った。
私はいつもメトロポリタンの方からスタスタ歩いて行くので、車だとこういう行き方があるのか、と思った。
裏から入る展開に何だかドキドキしてしまったが、私たちの車は警備員のいる楽屋口の駐車場に滑り込み、私たちは楽屋口から芸劇に入った。
受付には女性職員が2人いて、2人とも私たちを知っているかのような態度であった。
どうもIさんの顔パスのようだ。

「どうもすみません、指揮者のキンボーイシイさんの知り合いです。中に入っていいですか。」
「こんにちは、奥のエレベーターで〇階へどうぞ。」

楽屋口は舞台装置を搬入するため、通用口などとは違って広い作りなのだが、エレベーターもまた倉庫や工場にあるような大きなハコなのである。
ハコに乗って〇階に上がり、少し歩くと重々しい扉がある。
その扉を押し開けると突然、視界が広くなって楽屋フロアの中に立っているのである。
私がキョロキョロしていると、早速、楽団員の男性が近づいてきて、私たちを案内してくれた。
指揮者のキンボーイシイさんのいる控室へ。

キンボーイシイさんは、ジュリアード音楽院のドロシーディレイ教授の教え子という音楽界のエリートのひとりである。
手のケガなどもあり、バイオリニストではなく指揮者となった。
いまは伝統的なドイツのオペラハウスの総監督として活躍しているが、たまに来日してコンサートの指揮をすることがある。
また、ジュニアフィルハーモニックオーケストラの指導者(先生)でもあり、音楽家のたまごの学生たちを熱心に教えている。
今日はその練習の成果を見せる「発表会」としてのコンサートなのである。

イシイさんはIさんと親しく、私はIさんの紹介で知り合った。
イシイさんも私も、ともに、Iさんから「息子」と呼ばれることがある。
そういうわけで、Iさんの息子なら私の名前でチケットを用意しましょう、ということで、実は7月にも1度、私はすみだトリフォニーホールでイシイさんのコンサート(ザ・シンフォニカ)を聞いた。
その時にも招待客として楽屋裏に入れてもらい、挨拶をしたり、雑談をしたり、今回は2度目の招待である。
私が資生堂パーラーのクッキーを渡すと、イシイさんは喜んで、みんなに配ってきます、と言ってどこかに消えた。
私は足りるかどうか心配になったが、差し入れというのは女性陣の口に入ればとりあえずOKだと私は思っている。


東京芸術劇場ラウンジ


その後、開場時間になったので、私たちは楽屋を出て、芸術劇場の入口へ向かった。
しかし、楽屋から入口へ向かう場合、楽屋⇒舞台袖⇒ホール脇の通路⇒ラウンジ(ホワイエ)~と歩くことになるため、入口の係員から見ると、開場前に帰りの客が現れた、一体どういうことか、という事態になるのである。
私たちは無断入場者ではないことをアピールし、いったん外に出させてもらい、他の音楽友達と待ち合わせた。
やがてIさんの音楽仲間も集まり、私たちはグループとなって改めて入場し、後部座席に並んで座った。


キンボーイシイとジュニアフィルハーモニックオーケストラのコンサート東京芸術劇場




さて、パンフレットを見てみよう、今日のプログラムは何だっけ。
リヒャルトシュトラウスの「ドンファン」と「ドンキホーテ」。
ええと、私は「リヒャルト」ワーグナーと、ヨハン「シュトラウス」はよく知っているのだがね、リヒャルトシュトラウス(の組み合わせ)はよく知らないのだよ。
ああ、そうだ、リストのトランスクリプションの「ドンファン」なら知っている。
あのドンファンは、リヒャルトシュトラウスのドンファンなのかなあ。
まあ、いいや、聞いてみよう。
リヒャルトシュトラウスは、クラシック好きでもわりと盲点だが、機会があれば聞いてみるとよいだろう。

コンサートが終わった。
私たちは再び楽屋にイシイさんを訪ねた。
笑顔で私たちを出迎えてくれたイシイさんは、Tシャツと短パン姿、汗びっしょりで、ステージとは別人のようだった。
おいおい、さっきまでスーツを着用し、難しい顔で指揮をしていたのに、いまは真夏の屋台のラーメン屋のガンコおやじみたいじゃないか。
テンションがコンサートの時のままで下がらず、まだ興奮状態のようだ。
そのため、何か話すと声が上ずって、こちらもテンションを上げて話さなくてはならなかった。
こりゃ、疲れるな。
ラーメン屋のガンコおやじといえば、そうそう以前、Iさんと3人で話したとき、イシイさんは日本のラーメンが大好きだと言っていたなあ。
でも、太るので麺は一切食べません、とか、よく分からないことも言っていたような気がする。
麺を食べないラーメン好きとはどういうことかと思ったが、実にこの人はユニークだ。
まあ、私も人のことは言えないか。

最後に、みんなで記念写真を何枚か撮った。
私は用事があり、1人で先に帰ることにした。
先ほどのように楽屋を出て、1人で芸術劇場の入口へ向かった。
楽屋⇒舞台袖⇒ホール脇の通路⇒ラウンジ(ホワイエ)~と歩いているつもりが、あれ、おかしいな、迷ったかな。
さっきと同じだと思い、鼻歌を歌いながら適当に歩いていたから、どこかで道を間違えたらしい。
その後、10分くらい中をうろうろしてしまい、やがて誰もいない薄暗いラウンジ(ホワイエ)に行き着いた。
良かった、さっきのところだ。
でも、さっきあったはずの出口がない。
すでに明かりが落とされており、ラウンジは薄暗く、私は不安な気持ちになった。
さっきの出口が消えている、ど、どうしよう。
帰りのタイムマシンの穴が見つからず、青ざめているのび太君の気持ちがよく分かる。
しかし、大丈夫、ものすごく遠くの方に出入口の大きなドアを見つけた。
別方向からラウンジに出たので、単に見落としていただけのようだ。

あっ、ちょっと、待って。

そのドアを、いままさに係員の女性が閉め切ろうとしているではないか。
しかし、小声では届かない。
私は、あわてて走った。

すみませーーーーーん、まだここに1人いまーーーーーす。

大声で係員にアピールし、何とか無事に外に出ることができたのだが、まさに間一髪。
こうして私は、間一髪ドアに鍵をかけられて東京芸術劇場から出られなくなった男性、として夕方のニュースに報道されることを免れることができたのであった。


東京芸術劇場