2019/08/22

ことわざとは尾崎豊の歌詞のようなもの?

WSJの景品のスマートウォッチ


私はウォールストリートジャーナル(WSJ)の読者であるが、読者プレゼントに応募したら抽選でスマートウォッチが当たった。
しかし、ただでもらってこういうことを言うのも図々しいが、紫色だとカジュアルな服装でないとコーディネイトがしにくい。

さて今日は、渋谷で用事が2つある。
午前中は助成金補助金の勉強会があり、その後は渋谷モディーのカフェで友人のM先生と会って話す予定である。


渋谷モディ


カフェモイラ


さて、助成金補助金について。
一般に、助成金補助金というのは借入金とは違い、返済する必要のないお金である。
だから、「もらえるものなら夏でも小袖」と思うだろうが、「ただより高いものはない」ということわざもある。
ことわざとはおもしろいもので、探してみるとたいてい反対のことわざも見つかるため、ことわざを真に受けて行動したらあとになって同じ本のなかに矛盾することわざを見つけてどうしよう、となる場合もある。
しかし、ことわざ事典の著者は個別のことわざの原作者ではなく、矛盾することわざを同じ人が言っているわけではないので文句を言うところがない。


「日本の名言格言事典」


では、助成金補助金の場合、ただより高いものはないのか、もらえるものなら夏でも小袖なのか。
それは、まあ、結論を言うと、、、どちらのことわざがその時の自分に都合がよいかということだと思う。
つまり、ことわざとは自分が従うためのものではなく、自分の都合で使い回すものだと思うのだ。
自己正当化、あるいは自分または他人を納得させるために、である。

例えば、「楽あれば苦あり」と言うけれども、それは苦労ばかりして人生やってられない人が噛みしめる言葉である。
いま人生がうまくいっている人が、このことわざを真に受け、そろそろ苦がありそうだと用心するのはばかげている。
ところで、「楽あれば苦あり」、この格言は「山高ければ谷深し」という相場格言にも似ていると思う。
ああ、なるほど、その相場格言を噛みしめるのは、相場が下がって含み損を抱えてやってられないときの自分である。
相場が上がって儲かっているなら、このような言葉は誰もがスルーする。


渋谷クロスタワー


お昼過ぎに勉強会が終わった。
エレベータをおり、クロスタワーの正面玄関を出ると生暖かいビル風にあおられ、私はよろけてしまった。
どうしてこんなにビル風がひどいのか。
私はデッキ周辺を歩いてみた。


尾崎豊記念碑


手すりの方へ寄ると、尾崎豊の記念碑があった。
そうそう、思い出した、ここは尾崎豊ビルなのである。
今日は時間があるのでじっくりそれを眺めた。

尾崎豊といえば、2枚組のCDが家にあったような気もするが、学生時代以来聞いていないので、今はどこにしまってあるのだろう。
私は自伝も評伝も読んだことはないが、直感的に言うと、尾崎豊とは日本版ジェームズディーンである。
つまり、音楽的価値はともかく、「理由なき反抗」のようなものを遺して、若くして死んだ、これが尾崎豊のほぼ全てだと思う。
ディーンも同様だが、若くして死んだため、減点材料となるべき中後期の作品がこの世に存在しないということが非常に重要である。
もちろん、年老いた顔のビデオクリップもなく、いつまでたっても彼らは若いままでいられる。
ディーンも尾崎豊も、若くして死んだことにより永遠の若さを手に入れた、その点ではナルシストである。
まあ、尾崎豊のことはこれくらいにしておこう。
そういえば、尾崎豊は「卒業」で、こう歌っている。

夜の校舎、窓ガラス、壊して回った。

私は思うのだが、ことわざとは尾崎豊の歌詞と同じようなものではないか。
いかに尾崎豊を愛し、神と崇拝していても、「卒業」の歌詞を真に受けて実行したら卒業証書をもらう前に退学処分になってしまう。
ことわざも尾崎豊も、読んで聞いて楽しむものであり、真に受けるほどのものではない。
私は尾崎の記念碑を眺めながら、そう思ったのだった。