2019/07/21

The Chronicle of Noble Lady(3)タングルウッドの夏

ある時、Iさんは私のおやつにシュークリームを用意してくれた。
それ以降、私たちのおやつはシュークリームが定番となった。
Iさんの話では、とある有名ホテルのパティスリーから特別に取り寄せたものというが、果たしてどうやって取り寄せたのか。
だってIさん、シュークリームをたった2つ取りに行くためにタクシーで往復したら、一体いくらかかるのでしょうか。




でも、このシュークリームはお取り寄せ品だけあって、とてもおいしかった。
実はIさん、かつてKD社の婦人雑誌で料理研究家をしていたことがあり、シュークリームの分析と研究に熱中したことがあるシュークリーム通なのだった。

「かなり昔のことだけど、一時期、KD社の婦人雑誌で料理研究家をしてたの。有名店やホテルのレシピをたくさん取り寄せて、わたしが実際に家で作ってみるのよ。当時シュークリームの食べ比べ企画が大好評で、朝から晩までキッチンでシュークリームを焼いてたこともあったわ。でも作りすぎて食べきれなくってね、原稿を取りに来た編集部の若い子が、そこのテーブルで喜んで食べてたものよ」

Iさんの家のダイニングで、コーヒーとシュークリームをいただきながら音楽談義に花を咲かせる。
それは、音楽雑誌に書いてある音楽評論家の評論のようなものではなく、また、学問的な内容でもない。もっと生々しい、Iさんのリアルな実体験に基づく話である。

Iさんは海外の有名演奏家ともお知り合いである。
だいたい、先ほど出てきた「椿姫」のディアナダムラウとはメールやビデオチャットで気さくに話したりする仲だ。
古くは、Iさんがピアノを習っていたレオニードクロイツラー博士のことから思い出話は始まる。
クロイツラー博士とは上野の東京芸大キャンパスの銅像にもなっている偉大なユダヤ人ピアニストである。

その次に登場するのは、20世紀の伝説のピアニストヴィルヘルムバックハウスだ。
そこからは順不同で、Iさんが思い出した順となるが、ウェストサイドストーリーのレナードバーンスタイン、国際ピアノコンクールの冠名にもなっているヴァンクライバーン、その他にもダニエルバレンボイム、ウラディミルアシュケナージ、ピーターゼルキン、小澤征爾などである。
私がCDでしか聞いたことのない音楽家演奏家と面識があり、私は彼らのエピソードをいろいろ聞いた。
しかし、ヘルベルトフォンカラヤンとは会っていない、とIさんは残念そうに言うのだった。
確かに、Iさんのコレクションを眺めると、カラヤンとの記念写真もサインも見当たらなかった。

音楽談義が盛り上がると2人で新しいパソコンの前に移動することがある。
Iさんが交流のある演奏家や音楽業界の関係者との写真を見るためである。
Iさんのパソコンの中に眠る山ほどの写真を検索し、それをフォトアプリで閲覧しながら、Iさんが思い出話を語ってくれるのである。

「そうそう、この写真はねえ、夏のタングルウッドで撮ったものなのよ。」
「こちらが例のユダヤ人のご夫婦ですか?」
「そうよ。〇〇さんというお金持ちのご夫婦なの。」
「すごいお屋敷に住んでますね。何をしている人です?」
「お医者さんよ。」
などと話すIさんの記憶は実に鮮明だ。


アンドリュウビンカス「タングルウッドの夏」


私がパソコンの画面に写真を表示するとIさんがその写真の思い出話をすらすら話す。
ええと、何だっけ、と詰まることもあるが、その後ちゃんと日時場所、人の名前などが出てくるのだから、すごい記憶力だ。

その時、私は思った。
Iさんには昔の写真を見せて話しかけるのが最も認知症防止に繋がるということを。
ひとり暮らしのIさんにとって、話し相手の存在は非常に重要である。
誰かと話す機会があれば頭を使うし、身体にも一定の刺激がある。
とはいえ、私は音楽友達ではあるがIさんの家にお邪魔する客人でもある。
だから、Iさんは事前に私のためにおやつとご飯の買い出しに行ったり、部屋の掃除をしたり、台所で食事の支度もするのだろうし、私が来てからは私を相手に長時間話すし、気も遣う。私が帰ると後片付けをする必要がある。
その後は自分の身の回りのこともいろいろしなくてはならない。

いやいや、これは難しい問題だなあ。
Iさんの衰弱する身体に、私はかなりの負担をかけている迷惑な客人に違いないからだ。
果たしてIさんにとって、私が訪問するのとしないのとでは、どちらがいいのだろう。
あるいは、用事を済ませたらすぐ帰る方がいいのではないか。
そうすればIさんはそれほど疲れないかもしれない。
が、それでは張り合いがなくなり、かえって気分が落ち込んだりしないだろうか。
孫でも息子でもない私。
すぐ帰るのが無難な選択ではある。
だが、これは本人に聞いて確かめてみないと分からない問題である。
しかしながら、本人にダイレクトに聞くのはビミョウだし、自分で答えを出すのも難しかった。

「あれ、これは何ですか。」
「なあに??」
「Iさん、これ、先月一緒に行った芸劇の記念写真ですよね。」
「そうよ。」

私たちは6月、読売交響楽団とコリヤブラッハー(Kolja Blacher)のブラームスを東京芸術劇場で聞いてきたのだ。
そのときはコンサートの前に池袋のメトロポリタンの最上階のレストランでイタリア料理を一緒に食べた。
何のお祝いかはともかく、お祝いの記念写真も窓際のテーブル席で撮ってもらった。


キュイジーヌエスト


キュイジーヌエスト


キュイジーヌエスト




「どうしてこの写真がここに??」
「あなた、こないだ送ってくれたじゃない。大事にしまってあるのよ。」
「ええと、私、送りましたっけねえ?」
「送ったわ。」
「そ、そうですか」(私の方が忘れてしまっているとはまずいな)

とまあ、こんな感じで2人でいると楽しいので、Iさんと私は、来月もまた一緒にどこかへ行く予定を立てている。
今後も定期的にコンサートなどへ行き、Iさんの脳にも、そして私の脳にも一定の刺激を与えるために。