2024年6月15日。
兜町の日本テクニカルアナリスト協会本部で定時総会があった。
総会の終了後、東京証券取引所の近所のビルの地下にある「小楠国」で懇親会が行われたが、ここで私は、ガチ中華というものを初めて食べた。
エビチリも麻婆豆腐も、激辛で、おいしかった。
中華饅頭に豆板醤を塗って食べるのも、私には斬新だった。
中華饅頭に豆板醤を塗って食べるのも、私には斬新だった。
これには、黒ラベルが合うように思う。
このとき、私は、N氏と知り合った。
彼は証券業界を隠退し、夫婦でギャラリーをやっているという。
私は彼に、今度、ギャラリーを見に行く、と伝えた。
しかし、その後は忙しくて、訪問は9月になってしまった。
2024年9月21日。
私は、六本木に行く途中、寄り道をして、大田区にあるギャラリー南製作所を訪問した。
私は、六本木に行く途中、寄り道をして、大田区にあるギャラリー南製作所を訪問した。
品川で京浜急行の羽田空港行きに乗り換え、大鳥居駅という小さな駅で下車した。
暑いので、コンビニで冷たいお茶を買い、飲みながら、下町の住宅地を歩いた。
15分ほどで、ギャラリー南製作所に到着。
この日は、「佐藤和子展・縞帳と紙布と紙子」の初日だった。
古い建物の中に入ると、N氏と奥さんがいた。
挨拶をして、名刺交換をすると、ギャラリーの主は、N氏ではなく、奥さんの方であった。
廃業して使わなくなった実家の町工場を、ギャラリーとして再利用しているという。
入口脇にドラム缶があり、山盛りの金属片が入っている。
以前は金属加工業を営んでいたのだろう。
町工場の建物だけあって、屋根は高く、広々とした空間である。
イベントにも適していると思った。
壁際に古びたアップライトピアノが置いてあり、実際、ライブや演劇などもよくやるそうだ。
奥さんと話した後、今度は、N氏と話した。
この辺りは住宅街だが、昔は町工場がたくさんあったそうだ。
80年代バブルの頃は、大田区の町工場は好景気に大いに沸いていた。
町工場の経営者たちは、競って株式投資や不動産投資をした。
しかし、バブル崩壊で大ダメージを受けた。
その後、大田区の町工場は、どんどんダメになっていった。
不景気と円高と資産価格の下落、全ての材料がアゲインストである。
私が聞いたのは、日本経済の教科書の通りのエピソードだった。
N氏と一緒に、佐藤さんの展示作品を見て歩いた。
紙で作った着物、あるいは肌着などが展示されているが、どれも地味である。
展示作品が地味だと、素人の私は、少々退屈。
おや、、、これは?
大きな織機が置いてある。
「この機械は、織り機ですね?」
「そうです。和紙というのは、織ると思いのほか、頑丈になります」
「織るのは、重労働でしょうね」
「ええ、佐藤さんは、ご高齢なので、これが最後の展示会になると思います。ちなみに、佐藤さんの作品は、最近、イギリスで話題になり、売れているのです」
「エエ! イギリスで認められているなんて、スゴいですね」「そうでしょう。こちらへ来てください」
N氏が私を案内し、すみっこのテーブルの前にいくと、高級和紙の小さなパンフレットが展示されていた。
それには英語で文字がビッシリ書かれており、高価な洋書の1ページのようだった。
私は、パンフレットを手にとったが、手帖ほどのサイズなのに、高級感と重厚感があった。
「これは?」
「佐藤さんの和紙で作ったパンフレットです。英語でPRが書かれています」
「すごく、イイ紙ですね」
「はい。実は、何十年も前の昔話ですが、佐藤さんの知人の男性が、佐藤さんの和紙が世界に売れる!と確信し、自腹で海外向けのパンフレットを大量に刷ったんです」
「すごく、イイ紙ですね」
「はい。実は、何十年も前の昔話ですが、佐藤さんの知人の男性が、佐藤さんの和紙が世界に売れる!と確信し、自腹で海外向けのパンフレットを大量に刷ったんです」
「なるほど、これが、、、」(この時点で、世界に売れると確信したのか・・・)
「しかし、当時はまだ規制も厳しかったし、そもそも彼にはコネクションも販路もなかったので、佐藤さんの和紙の海外進出は、失敗に終わりました」
「やはり、無謀ですよね。でも、佐藤さんの作品は、彼には、よほど魅力的だったんだろうなあ」
「そうですね、、、」
私は少し考えてから、N氏に質問をした。
「あのう、、、ギャラリーって、シロウトでも、できますか?」
「ええっと・・・あなた、ギャラリーをやりたいんですか?」
「ええっと・・・あなた、ギャラリーをやりたいんですか?」
「いや、ええと、チョット聞いてみただけです」
「まあ、国家資格もいらないし、誰でもできますけど。ただし、儲かる商売じゃあないですよ」
「そうでしょうねえ、、、」
「そうですよ、、、」
「そういえば以前、京橋のギャラリーで、顔なじみのおばちゃんに、私もギャラリーをやってみたい!と言ったことがあったな。絵はそう簡単に売れるものではない、家賃を払うのが大変よ、と叱られました(汗)」
「ここは自社物件ですが、家賃なしでも厳しいですよ」
「そうなんですか」
「そうですよ、、、」
「そうなんですか」
「そうですよ、、、」
時計を見ると午後2時を回っていた。
「あ、用事があるので、私、もう帰ります」
「またいらしてください」
私は、ギャラリー南製作所を出ると、来た道を戻った。
典型的な東京の下町の住宅地だ。
バブルの頃、この辺りは町工場がいくつもあったはずだ。
しかし、いまは、作業服を着た人もいないし、金属加工音なども聞こえなかった。
予定通り、六本木へ。
これから、倉敷安耶さんの「Breast」を見に行く予定なのだが、予約時間まで、まだだいぶ時間があるので、東京ミッドタウンのベンチに座って、休憩した。
私は、ペットボトルのお茶の飲み残しを飲みながら、行き交う人たちを眺めた。
そういえば、佐藤和子さんの若い頃の写真は、ギャラリーに飾られていなかったが、若い頃の彼女は、美人だったのだろうか。
やがては知人男性の信じたとおり、佐藤さんの作品は世界に・・・いや、イギリスに認められたのだ。
佐藤さんが、あのような写真のおばあちゃんになってからの話で、そのとき知人男性は、もう死んでいたと思われるが、アーティストが生きているうちに世界に売れたのであれば、超ラッキーといえるだろう。
これは、なかなかスゴいことではないか。
私は、アート(アートビジネス)への投資というのは、非常に難しいものだな、と感じた。
そして、彼はきっと、佐藤さんの「作品」に惚れたのではない、と思った。
まだ日本で売れていない彼女の作品を、海外に輸出するビジネスなんて、勝算がないと考えるだろう。
それなのに、高級和紙のパンフレットを大量に刷って、アートビジネスを起業するなんて、着手のタイミングが早過ぎるのではないだろうか。
ただ、この和紙の作り手は彼女なのである。
恐らく、彼は、彼女から、和紙を全て買い上げたかもしれない。
私は、何やらこれには、ビジネスの理屈ではない事情があるような予感がした。