2022/03/14

護国寺の桜と山口藍「山あいの歌」

週末、ミヅマアートギャラリーで、山口藍さんの展示会(山あいの歌)を見てきた。
いつもは何かの用事のついでだが、この日は護国寺に行く以外、特に用事はなかった。
実は今回の山口藍さんも、アート友達Iさんのおすすめである。
いつもはクールな彼が、ぼくは山口藍さんが大好きなんです、などと熱っぽくいうので、それなら自分も見てやろうと思った。

飯田橋駅の神楽坂下の交差点から市ヶ谷方面へ歩いて10分ほど。
外濠の向こうに見える高層ビルは法政大学の校舎である。
東京理科大の前を通り過ぎる。
すると、以前食べたことのあるイタリアンレストランを見つけた。
おお、ここは確か3年前、アンスティチュフランセ(フランス語の教室)で知り合ったおばあちゃんと一緒に、気まぐれな食事会をしたところだ。

「ねえねえ、お兄さん、まだ講演が始まるまで30分以上あるじゃない。」
「そうですね。」
「これからお兄さんも隣のレストランに一緒に食べに行かない?」
「え~、いいんですかあ。私のような怪しい男をナンパするなんて勇気がありますね。」
「いいのよ、私たちはどうせ取られるものなんてありゃしないんだから。」
「なるほど、分かりました。ご一緒します。」

とまあ、こんな感じで食べにいった店なのだ。
そこから歩いて数分、倉庫のような建物の2階がミヅマアートギャラリー、今年早くも3度目の訪問である。
この日は30分ほどかけ、ゆっくりと見ることができた。
女性職員の話だと、山口さんが個展をするのは数年ぶりとのこと。
作品に描かれた女性はみな慎み深く上品で、心惹かれるものがあった。
杉戸の絵は彼女の新作で、黒猫のものと白猫のものがあり、女性職員の話だと、この杉戸は寺社のものではなく、松濤(渋谷bunnkamuraの向こうの高級住宅街)のお屋敷を取り壊した時に得たものだという。
松濤のお屋敷ねえ、、、


山口藍、ミヅマアートギャラリー


山口藍、ミヅマアートギャラリー


古い杉戸に描かれた新作《せつが恵とき》は、「雪(山口の愛猫)が絵解き」の意で、北斎の「姥がゑとき」から名付けられました。百人一首に詠まれた歌意を乳母がわかりやすく子供に説明するという趣旨で制作されましたが、北斎ならではの難解な絵図が版元の意向に沿わず途中で断念したとされる北斎晩年期の錦絵の連作です。杉戸の端には女の子が猫と共に横たわり、静かな余韻を感じさせる画面には百人一首に編まれた全首が描かれています。和歌の筆の運びが着物の襞や柄へと繋がり、女の子の髪の毛が文字へと流れていくように、耳で聞けば目には見えない和歌の一文字一文字が、空間の気の流れを変えているような緊張感を携えます。
(山口藍「山あいの歌」展示会資料より)

私は、横たわる少女よりも、色違いの2匹の猫に興味を持った。
猫って無愛想で、あんまりかわいくない、、、
ブログの読者はご存知かと思うが、私は犬好きなのである!!

それにしても、百人一首の歌人たちは、うらやましいところに座っている。
私は、むかし読んだドラえもんのマンガを思い出した。
スモールライトか何かで小さくなったのび太君が、散歩中のしずかちゃんのスカートのポケットに潜り込むのだが、しずかちゃんは帰宅してそのまま脱衣所へ、お風呂に入ろうとする、というようなくだりである。


護国寺


さて、ミヅマギャラリーを出た私は、飯田橋駅に戻り、有楽町線で護国寺へ。
護国寺の正門を潜ったのは4時過ぎ。
しかし参拝時間は4時までで、境内には着物姿の女性も歩いておらず、坂道の方ではお茶会もしておらず、実に静まり返っていた。
私は霊園へ向かったが、その途中、本堂の裏手を通りかかったときに、身なりのよい若い男性を見かけた。
へえ、スーツ姿なんて珍しい、仕事の合間に、お墓参りかな??
と思ったら、彼は本堂の横の薬師堂で神頼みを始めた。
ほかにも何人かの男女が、神頼みをして境内を歩いているようだ。


護国寺


護国寺


そろそろ桜の季節である。
戦争と桜、「散る」という言葉が思い浮かんだが、しばらく桜を探して境内を散歩してから霊園に入った。
桜は徐々に咲き始めておりきれいだが、、、あそこにいる2人組の女の子、今度こそ、お墓参りかな??
いや、彼女たちは墓石の前ではしゃいでいて、スマホをかざして墓石の向こうの桜を記念撮影しているだけだ。
な、なるほど、、、撮影してもいいのだな。
これまで墓地で写真を撮るのは気が引けていたが、彼女たちを見て気が変わり、私は試しに鹿鳴館の建築家ジョサイアコンドルの墓石を撮ってみた。
さらに歩くと木々の繁る荘厳な墓地があるのだが、、、

おや、木の上にある白黒の毛皮のようなもの、あれは何だろう??
パンダ模様の野良猫さん、、、ですよね。


護国寺、ジョサイアコンドル墓地


護国寺


木の上の野良猫は遠くの空を見ている。
敷地に足を踏み入れるとその猫がこちらを見た。
私は少しの間、猫を見上げたが、警戒している感じではない。
よく「犬は人に付き、猫は家に付く」と言われる。
飼主がいなくなっても猫は同じ場所にとどまるということだから、死んだ飼主を追いかけて墓地へ迷い込む猫などいるまい。
それにしても、墓地の木の上でぼんやり遠くを見るこの野良猫、空は薄暗くて何となく不吉な存在にも見える。
ただ、それは何かと心配性の私個人の問題で、夕暮れ時の墓地にいるとそのような暗示にかかりやすいということなのだ。
野良猫はただそこにいるだけ。
のんびりとくつろいでいるだけ。
猫はきっと、墓地の方が静かで心が落ち着くといいたいだろう。

霊園を出たのは6時近く。
帰り道は裏道から正門に向かったが、途中の身代わり地蔵、一言地蔵尊、六地蔵の前では、先ほど見かけた数人の男女がまだ神頼みをしていた。

今の世の中は大変な事態に陥っており、それはまさに立ちはだかる山と山の間にいるかのようだ。私もその一人ではあるが足掻きながらも有難いことにこうして日々制作できている。禍によりたくさんの人が夢や希望が断ち切られそうなこの世の中で今をどう過ごせばいいのか悩み、物理的に孤立したことによりそれぞれ募らせる思いが大きくなり、孤立させられたその居場所で叫んでいるように感じている。つまり、今居る場所がそれぞれの山間とするならば、私はここで山あいの歌を響かせようと思う。
(山口藍「山あいの歌」展示会資料より)