2026/09/13

久井唯花さんの写真展「QUALIA」

最初、私の眼鏡が曇っているのかと思ったが、そうではなかった。

9月のある日、銀座のソニーギャラリーの写真展を見たときのこと。
ギャラリーの入口の案内板をスマホで撮影すると、光の具合(?)で、こうなった。

私は、不思議な感覚に陥りつつ、展示室の中へ足を踏み入れた。




今回の写真展は、久井唯花さんの「QUALIA」。
まずは、久井唯花さんのアーティストステイトメントを読んでみた。

「色感覚を伴う共感覚の経験を背景に、視覚と非視覚的な感覚が結びつく記憶を記録している。写真を主な表現媒体とし、人それぞれに固有の知覚のあり方を主題に制作を行う。2025年に10年分の記録をまとめた写真集「QUALIA」を刊行」

ボードには、自己紹介のほか、彼女の詩が載っていた。

「わたしの祈りは叶わないまま輝いている
もう二度と、過ぎた日を振り返ることがなくても
もう二度と、ひとと同じものを見ることがなくても
そしてそれらが紙の上でどんなかたちをしていても
その輝きは、失われることはない」











そんなに長居はしなかったのだが、彼女の写真作品は、10年分の記録だけあって、選りすぐりのものだった。
どれもシンプルで、直感的で、印象深く、私はとても満足した。

ソニーギャラリーの次は、雨のぱらつく並木通りを歩き、ノエビア銀座ギャラリーへ。
写真家の林忠彦と齋藤康一撮影の「文士の時代 三島由紀夫と川端康成」である。

お盆休みに、下の写真のような案内ハガキが我が家に届き、ちょっと面白そうなので見に来たのだ。





前提として、ふたりは師弟関係にあり、深い親交があったことが、よく知られている。
順番に写真を見ていくと、昭和45年のある日、パーティーの席で、歓談するふたりの様子を撮った写真がある。
解説文には、宴会の1週間後、三島由紀夫が自決したと書いてあった。

自決なんて、深刻でイヤな話だな、、、(*'ω'*)コワー

三島由紀夫は、昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした。
ということは、写真のパーティーは、11月なかばということになる。
三島由紀夫の葬儀は、築地本願寺で行われたが、葬儀委員長は川端康成が務めた。
そして、三島由紀夫の死から約1年半後の昭和47年4月16日、川端康成は、逗子の仕事場でガス自殺をした。

なるほど、川端康成は、そんな死に方をしたのか(*'ω'*)コワー

ノーベル文学賞受賞者の川端康成が、ガス自殺をしたことは、学校の国語の授業で習ってない気がする。
このあたりのことは、Wikipediaの「川端康成の解説(エピローグ突然の死)」に、詳しく書いてある。





ノエビアの写真展を見た後は、銀座シックスの方へ。
大通りを新橋方面に歩き、ヤマハのビルに立ち寄った。

入口の脇で、傘をたたむと、私のすぐそばの壇上にある、珍しいピアノが目に留まった。
展示されているのは、ヤマハピアノ100周年記念の特注ピアノである。
大正時代のレトロ感があり、装飾的な脚が特徴的だ。
グランドピアノとしてはミニサイズだが、私は、その小さくて美しい顔と身体に強く惹かれた。

音楽は、直感的な芸術である。
余計なこと、難しいこと、深刻なことを考えなくていい。
なので、私は、文学やアートより、音楽が好きだ。

いま、手元に手帳がないのだが、次のコンサートの予定は、11月24日の東京オペラシティーだったか?




ここで、QUALIAとは何なのか説明しておこう。

Wikipediaには、こう書かれている。

「クオリア(英語: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)または感覚質とは、『脳科学辞典』によれば、感覚的な意識や経験のこと[1]、意識的・主観的に感じたり経験したりする質のこと[1][注 2]。一例として、訓練されたサルの脳に電極を埋め込んで「眼球運動や脳活動からクオリアを読み取る」研究が進められていると同辞典にはある[1]。『広辞苑』によるとクオリアは「感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感」であり、「脳科学で注目される」概念である[2]。」

ただ最近はWikipediaより、生成AIの解説の方が分かりやすかったりするので、Geminiでも調べてみた。

「クオリア(Qualia)を一言でいうと、「私たちがある体験をしたときに感じる、主観的で生々しい『質感』や『感じ』」のことです。科学やデータでは絶対に説明できない、あなたの中にだけ生じる「あの感じ」を指す哲学用語です。言葉だけだと少し難しく聞こえるかもしれませんが、具体例と比べるとすぐに理解できます。「Quality」が物事の客観的な「性質」や「品質」を指す言葉として定着したのに対し、「Qualia」は「人間の意識や経験における主観的な性質(Quality)」を指す言葉として使われています。私たちが何かを体験したときに「それはどのような(qualis)感じがするのか?」と問うときの、その「感じ」そのものがクオリアです。」

久井唯花さんの言葉を借りると、「色感覚を伴う共感覚の経験を背景に、視覚と非視覚的な感覚が結びつく記憶」であり、「人それぞれに固有の知覚のあり方」があるものである。
彼女の作品には、光が差し込んでいるが、私たちの脳裏には、何かを想い起こしたとき、一瞬で、そのときの主観的経験や体験に基づく個人的感覚がよみがえるだろう。
それが、クオリアである。

例えば、男どうし居酒屋で酒を飲みながら話しているとして、美人とは~であると客観的学術的に定義してもよく分からないわけである。
感覚的に腑に落ちないからであるが、そこで美人とはクラスメイトの〇〇さんとか、アーティストの〇〇さんというと、彼女を知る男たちは途端によく分かる。
クオリアとは、あるときは、そんな美しい思い出の共有だと思う。
もっとも、思い出は美しいものばかりではない。
主観的で生々しい『質感』や『感じ』が、ゴキブリを触ってしまったときの触感であったり、海外で口に合わない料理を食べたときの「まずい!」という味覚だったりすることもある。

よく例えに出てくるのが、「赤い」という色彩感覚である。
リンゴ(APPLE)の赤というと、リンゴの皮の匂いや、昔食べたおいしいリンゴの甘酸っぱい味を思い出し、良い感じがする。
しかし、赤を血の色として記憶している者にとっては、ぜんぜん良い感じはしないだろう。

ということで、私たちは、なるべく良い思い出を作ることが大事のようである。

最後に、私は、今一度、彼女の詩を読んでみた。

「わたしの祈りは叶わないまま輝いている
もう二度と、過ぎた日を振り返ることがなくても
もう二度と、ひとと同じものを見ることがなくても
そしてそれらが紙の上でどんなかたちをしていても
その輝きは、失われることはない」