※前回記事の両国の都立復興記念館にちなんで、2019年3月の記事を一部改めて再公開しています。
都内でお花見といえば、春先のニュースに必ず出て来るのが上野公園の桜である。
しかし、伝統的にはお花見といえば隅田川の河川敷の桜である。
江戸時代の浮世絵にも定番で描かれているが、特に向島が有名である。
川下りの船上で桜を眺めるのが江戸っ子の粋であった。
向島は現在の東京スカイツリーの周辺になる。
今日は用が早く終わり、向島の桜をひとりで見に行った。
ついでに、すみだ郷土文化資料館にも行った。
すみだ郷土文化資料館は隅田公園のそばにある。
すみだ郷土文化資料館は隅田公園のそばにある。
東京スカイツリー駅と対岸の浅草駅のどちらからも行けるが、私は東京スカイツリー駅から歩いた。
先に隅田公園を通り抜け、河川敷を花見散歩してから資料館へ向かった。
今回は「東京大空襲展」という反権力の企画展をしており、これが非常に力作なのであった。
今回は「東京大空襲展」という反権力の企画展をしており、これが非常に力作なのであった。
東京大空襲はB29による無差別爆撃である。
そもそも太平洋戦争の最初の本土空襲は、1942年4月18日、ドゥリットル隊によるものだった。
この本土空襲は、1941年12月8日真珠湾奇襲攻撃を受けた米軍の報復と考えられているが、すでにこの時が米軍最初の「無差別爆撃」なのであった。
新宿の岡崎病院を破壊し、機銃掃射で子供を射殺したと書いてある。
このわずか2ヶ月後、日本海軍はミッドウェー海戦で主力部隊の大型空母を全隻喪失し、歴史的な大敗を喫する。
このわずか2ヶ月後、日本海軍はミッドウェー海戦で主力部隊の大型空母を全隻喪失し、歴史的な大敗を喫する。
以後、戦局は日本軍の防戦一方となる。
このミッドウェー海戦であるが、実は当時の司令部内でも疑問視されており、「ミッドウェー作戦をわざわざ決行する必要があるのか」と言われた。
それなのに山本五十六長官が作戦を強行した動機はいろいろあると思われるが、ひとつには、米軍にこのような本土への無差別爆撃を二度とさせないようにするためだった。
ただ、天候のあやと、度重なる不運で、日本海軍は「まさか」の大敗を喫したのであった。
まあ、日本海軍は仕返しの仕返しをしようとしてやられたのである。
やられたらやり返せ、目には目を歯には歯を、などと言うので、仕返しをするのは仕方がないことだと思うのだ。
しかし、神様の考え方としては、仕返しの仕返しはだめですよ、ということなのだろう。
仕返しの仕返しをしようとすると、もとをたどれば自分が種を蒔いているので、自分がひどい目にあうようにできている、ということなのだろう。
確かに、それは正しい結末だと思う。
仕返しの仕返しをしようとすると、もとをたどれば自分が種を蒔いているので、自分がひどい目にあうようにできている、ということなのだろう。
確かに、それは正しい結末だと思う。
そうならないと、報復合戦が続いてしまうからである。
さて、その後の米軍の主な本土空襲は、1944年11月ごろから再び始まった。
最初は必要最小限、軍需施設のみであった。
だが、年明けに有楽町~銀座にB29が襲来して、ついに日本の中心地が爆撃された。
これは主に有楽町の新聞社を狙ったものだが、銀座の街も被害を受けたので、恐らく米軍の「最後通告」の意味もあったのだと思う。
これは主に有楽町の新聞社を狙ったものだが、銀座の街も被害を受けたので、恐らく米軍の「最後通告」の意味もあったのだと思う。
しかし、日本政府の圧力でこの空襲は国民に周知されなかったため、最後通告としての成果は得られなかったようだ。
たぶん、、、であるが、この空襲で日本国民が大騒ぎをすれば、状況は変わった、東京大空襲も避けられた、と私は思う。
こういう言い方はよくないと思うがあえて言うと、日本人がおとなしすぎるのが災いで、3月10日の東京大空襲までもつれてしまった、という感じだ。
そうすると、現代のおとなしい日本人にも非常に良い教訓になると思うのである。
有楽町~銀座が空襲された後、日本政府は次の空襲の場所を東京の下町と想定した。
たぶん、、、であるが、この空襲で日本国民が大騒ぎをすれば、状況は変わった、東京大空襲も避けられた、と私は思う。
こういう言い方はよくないと思うがあえて言うと、日本人がおとなしすぎるのが災いで、3月10日の東京大空襲までもつれてしまった、という感じだ。
そうすると、現代のおとなしい日本人にも非常に良い教訓になると思うのである。
有楽町~銀座が空襲された後、日本政府は次の空襲の場所を東京の下町と想定した。
ここは当時、日本の製造業の中心で人口密集地、今と違って経済の中心地でもあった。
しかし、下町の住民にはそれがきちんと周知されなかった。
そして、東京大空襲が本当に来てしまい、罪のない多くの庶民が焼け死んだのだ。
その被害の規模と程度が政府の想定をあまりにも上回っていたため、政府はパニックとなっただろうが、ここまでやられるともはや感情論にもなるだろう。
その被害の規模と程度が政府の想定をあまりにも上回っていたため、政府はパニックとなっただろうが、ここまでやられるともはや感情論にもなるだろう。
米軍はそこまでやるのか、許せない、本土決戦でもなんでもしてやる、という雰囲気が日本国全体に醸成されたものと思われる。
(すみだ郷土文化資料館「東京大空襲展」資料より)
現代人から見てここで最も重要なのは日本政府の不作為である。
(すみだ郷土文化資料館「東京大空襲展」資料より)
現代人から見てここで最も重要なのは日本政府の不作為である。
また、当時は軍国主義の統制社会であったから、10万人死んで焼け野原になっても日本国民は政府に従い続けなくてはならなかった、ということも重要である。
では、米軍は次に何をしたか。
広島と長崎の原爆投下である。
たぶん、、、であるが、東京大空襲で日本国民が大騒ぎをすれば、状況は変わって、原爆投下も避けられた、と私は思う。
こういう言い方はよくないと思うがあえて言うと、日本人がおとなしすぎるのが災いで、原爆が投下される流れができてしまった、という感じもするのだ。
そうすると、現代のおとなしい日本人に非常に良い教訓になると思うのであるが。
そうすると、現代のおとなしい日本人に非常に良い教訓になると思うのであるが。
私は思うのだが、どういう状況でも日本人は、日本政府に対して従順すぎるのではないだろうか。
また、そのような日本人が社会的に模範とされている、ということも問題である。
なお、私はべつにアメリカの味方や代弁者ではない。
昔の話を持ち出し、いまのアメリカに恨みを抱くよりも、昔の話から教訓を得る方が、はるかにまともな神経の持ち主だと思う。
昔の話を持ち出し、いまのアメリカに恨みを抱くよりも、昔の話から教訓を得る方が、はるかにまともな神経の持ち主だと思う。
それに、原爆の恨みを晴らすためにアメリカに何かをすると、きっと報復合戦が続いてしまうだろう。